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小説の書き方
小学校の頃、写生の授業があった。
学校の周りの公園とかにいって、場所を決めて、風景を描く。基本的には、正確に、写実的に描く。描きたいからといって、そこにいない怪獣とかを描いたら怒られる。
対象物を、じっと観察して、画用紙の上を、まずはゾーニングする。このへんにあの森を、このへんに公民館を、このへんに池を。鉛筆を持って、薄い線で、なんとなくの輪郭を描き込みながら。
それから徐々に、輪郭の具体を見つけていく。何本も線を引きながら、「ここだ」という一本を見つけていく。答えは目の前にある。現実の風景をしっかり観察し、画用紙の上との差異を取り除いていく。
小説を書くことと、似ているなと思う。
だが決定的に違うことが1つ。
小説に対応する現実など、存在しない。
言わば、「見えない現実」を写生しなければならない。
まっしろの原稿用紙の上に、あるいはPC画面に、文字という鉛筆で、うすくうすくガイドを引いていく。このあたりにはこんな出来事を、このあたりにはこんな登場人物を。何本も重ねて書いているうちに、「ここだ」という一本が見つかる。
いや、見つかった気がする。
だが、それが正しいのかどうかを、確認する術はない。どれだけ目を凝らしても、見えるのは原稿用紙だけだ。
自分の描き出そうとしている”現実”と、「ここだ」と書き込んだこの線が重なっているかどうか、書き手である自分にもわからない。
「でも小説なら、怪獣を出しても怒られないじゃないか」
確かに。答えがないからこそ、自分で答えを決められる。そういう側面はあるし、そこが小説のもっとも重要な魅力だと考える人は多いだろう。
でも今僕は、「それは違う」と思っている。少なくとも書き手は、そういう考えで小説を書いてはいけないのだと思うようになった。
画用紙に怪獣を描き込むことは禁じられていない。だが、怪獣を描き込んでいいのは、その怪獣を自分が「現実の生き物」として認識できたときだけだ。「見えない現実」の中に、確かに怪獣の存在を”見た“ときだけ、それを描き込むことができる。
逆に言えば、木や花や、建物や道路、そういった現実的なものも、「見えない現実」の中に”見えていない“のなら、描き込むことはできないのだ。
小説は、写生だ。
「見えない現実」を描く、写生だ。
なんてことを考えながら構想を練る日々を過ごして早数ヶ月。原稿用紙一枚どころか、本文は1文字だって書けていない。一方、薄く薄く描き込み続けている線は、何千本、何万本になっただろうか。
悔しいのは、こんな無為に見える時間を経た結果、自分は数ヶ月前とは比べ物にならないほど、「見えない現実」を”見る”ことができるようになっているということだ。
自分はいま、原稿用紙の向こうに、PC画面の向こうに、ここではない別の”現実”を確かに”見”はじめている。ともあれまだそれは、一本の線を「ここだ」と決めて描けるほどの解像度ではない。
すべての線が「ここだ」と描かれるのはいつになるのか。わからないけど、やっぱりたまらなく楽しい。頭の中に現実とは違う”現実”ができあがっていくのは、たまらなく楽しい。