【小説】 水疱 #2000字のホラー
隣の席の同僚がパソコンでメールを打ちながら私の方をちらりと見、どうしたのそれ、と言った。
「なにが?」
「それよそれ、左の手首、赤くなってる」
見れば確かに私の左手首、親指の付け根から五センチほど下りた所の皮膚が、薄っすらと赤くなっている。
ああ、やっぱり来たか。私は思う。
幼い頃から日光が苦手で、日の下に皮膚を晒すと炎症を起こす。いわゆる日光アレルギーだ。今のような真夏は特に注意が必要で、だからどんなに暑くても長袖を着ていたのに。
どうしても水着姿が見たい。そう彼から言われ、仕方なくだった。
人でごった返す海水浴場。私は入念に日焼け止めを塗り、ビキニの水着姿でビーチに出た。ほとんど外に出したことのない私の肌は、そこにいる誰よりも白い。水着姿の私を彼は目を丸くして見た。
数日以内にまた誘われるだろうという確信があった。
悪くない気分で会社を出、電車に乗った。帰宅ラッシュで満員の車内、私は手首だけでなく、首の後ろや太ももなどに痒みを覚え始めた。
やはり昨日の海のせいだ。日焼け止めを塗ったとは言え、数時間もあの日差しの下にいたのだから、ある程度は覚悟していた。
だが、その甲斐あって、彼はもう私に夢中だ。
電車を降り、改札を抜けると、痒みはさらに増していた。だが、我慢しなければならない。掻くほど炎症はひどくなり、水疱ができる。膜が弾けて中の液体が漏れ出、それが皮膚につくと飛び火のように炎症が広がってしまう。
増していく痒みに奥歯を噛み、早く家に戻って冷たいシャワーでも浴びようと足を早めた。
家に戻る頃には、どこが痒いのかもわからないくらい全身が痒かった。鍵を締め、パンプスを脱ぐと、玄関でカーディガンを脱ぎ捨てた。顕わになった腕を見て、私は息を呑んだ。
ひどい状態だった。手首だけじゃない。腕全体が赤く炎症を起こしていた。しかも両腕とも。
軽いパニックと、さらに強まる痒みに追い立てられ、私は洗面所に駆け込んだ。冷やせば多少症状が収まる事を経験で知っていたからだ。
慌てて服を脱ぎ、シャワー室に入ろうとした時、洗面所の鏡に写った自分の体が見えた。
「なに……これ……」
全身が、腫れ上がっていた。腕も、首も、腹も、そして顔も、水着で隠れていたはずの胸までが薄いピンクに染まり、浮腫んだようにぶよぶよと膨張している。
絶句し、赤く膨らんだ自分と見つめ合うこと数秒、今度は左手首に妙なものを見つけた。鏡から実際の手に目を移す。
水疱だった。
掻くのは我慢したのに、水疱ができている。直径数ミリの水疱が、数個固まって顔を出していた。カーディガンの繊維で擦れたのかもしれない。
「ステロイド……」
炎症が出た時に塗る薬。成分が強く、できるだけ使いたくはなかったが仕方がない。どこに入れただろうか。洗面所の引き出しを開け中身を弄っていると、妙な音がした。
ぶちゅっ。
思わず手を止める。
ぶちゅっ、ぶちゅっ。
音は続いている。ゆっくりと顔を上げる。鏡に写った自分の顔を見た瞬間、私は叫びそうになった。
鼻のてっぺんに、いくつもの水疱ができていた。それだけではない。掻いてもいない、触れてさえもいないそれらが、まるで水が沸騰するように、皮膚の表面でぶちぶちと弾けているのだ。
震える手で頬に垂れた液体に触れようとし、止める。
「ちょっ、ちょっと……どうして」
そこには既に新しい水疱ができていた。のけぞるように手を離したが、その瞬間に全身が視界に入り、信じられないものが見えた。
腕も、いや、手の平まで、いつの間にか水疱だらけだった。それらも既に勝手に爆ぜ、皮膚の表面をグツグツと煮えたぎらせている。
だが、それだけではなかった。
弾けた水疱の膜の下から、新芽が土を持ち上げ顔を出すように、新たな水疱が次々と湧き出てくるではないか。その間も、ぶちゅっ、ぶちゅっ、と水疱は弾け続けている。
足元にはいつの間にか、私から漏れ出た液体が水たまりを作りつつある。
その絶望的な様子を前に、私は今更のように理性を取り戻した。
私は今、非常にまずい状況にある。何がどうなっているのかわからないが、すぐに助けを呼ばなければ死んでしまうかもしれない。救急車。とにかく助けを。
床に投げ置かれてあったスマホを持ち上げ、119とプッシュした。「救急ですか? 火災ですか?」相手側が応えたのを聞き、私は話し始めた。
……話し始めたはずだった。
だが、声が出ない。喉に、いや、口中に違和感があった。
「もしもし? もしもし?」
電話の向こうで言うのを聞きながら、私はぼんやりと鏡の方を向き、どこか諦めのような感情を抱きつつ、ゆっくりと口を開けてみた。
あった。
口の中に、まるで無数の目が敷き詰められるように、何百個もの水疱があった。
ぶちゅっ。
その中の一つが潰れ、液体が吹き出した。