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クラス替えと人事発表

今日は娘のクラス発表だったんだけど、仲のいい友達とことごとく離れちゃって、まあ荒れていた笑。

親としては「きっと新しい友達できるよ」とか「心機一転って感じでいいじゃん」とか当たり障りのないことを言ったわけだけど、内心は彼女にものすごく同情していた。

子どもにとっての学校というのは「社会」とほぼイコールだ。そこでの人間関係がすべてを決めると言ってもいい。ドキドキしながら中学に入り、1年かけてやっと築いてきた友情を奪われるのは、しかも、そのためにどれだけ努力を払ってきたか知らないであろう先生や学校に勝手に奪われるのは、何にも増して辛いことだろう。

彼女はいま、とても辛いだろうなと思う。不安で仕方ないと思う。同じ状況に自分がいたら、「きっと新しい友達できるよ」なんて言葉は、「まあ適当にがんばれよ、俺には関係ないし、わはは」くらいに聞こえるだろう(それでも何か声をかけたくなっちゃうのが親の心情なのだけど)。

いずれにせよ、物事は「その人の気持ち」で考える必要がある。他人の価値観から助言されたり慰められても意味がないのだ。

でもよく考えてみると、大人になってなお、学校のクラス替えのようなイベントで一喜一憂する人は多い。名前は「人事発表」と変わっても、生殺与奪の権利が自分自身にないという意味では、学校や先生が勝手に決めるクラス替えと大して変わらない。

僕はそれが嫌で仕方なくて、組織を離れることを決めた(理由はそれだけじゃないけど)。同じように傷を負うなら、あるいはその傷がより大きくなるのだとしても、誰かに押し付けられた決定のもとではなく、自分自身が納得して選び取った決定のもと負いたい。

結果、様々な人の助けもあり、僕はあの頃に比べればずっと多くの「選択肢」を手に入れることができた。そしてあらためて、大きなシステムの中で個人が知らず奪われている選択肢の多さに気付くのだ。

「本当の自由は、不自由をも選択できる」

そう言ったのは誰だっけ。まあいま自分で考えたんだけど、とにかく今回のことで娘がもし、「そうか、選択肢を自分が持っていない(誰かの手の中にある)というのはこういうことか」と学んだとしたら、(これまた自己中心的な解釈ながら)パパは嬉しく思う。

ということで、会社員じゃなくなってもうすぐ5年。でもやっぱり4月の頭って「新年度スタート」って感じがしますね、ということで。

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