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社畜もいつか死ぬ③~せめて最後は人間らしく

2011年11月3日発行 ロウドウジンVol.3 所収

 繰り返しになるが、まずは社畜の定義をおさらいしておこう。ずばり、社畜とは「死を忘却した存在」である。つまり、彼らに死を思い出させることができれば、社畜を次のステージに引っ張り上げることができる。死を意識した社畜は反社会人と見分けがつかない、のだ。

 死を意識させる……勘の良い読者諸氏はすでにお気づきになったかもしれない。そう、東日本大震災である。詳細は前号『ロウドウジン』Vol.2(特集:震災)をご参照いただきたいのだが、われわれは震災の前において無力であった。それまで自分だけは死なないと思い込んでいた社畜たちも、己の死の可能性に気がついた。そして社畜も反社会人も渾然一体となった「重ね合わせの状態」に突入したのである。われわれは量子力学的身体のもと、それでも日々の生活を送ってきた。震災から半年、すでにその呪縛から世間は逃れ始めている。一度は同一なる存在になった社畜と反社会人も、再び分化の道を歩み始めている。それではいけない。悪夢が繰り返される。

 震災はがわれわれにもたらしたのは一過性の「死」(のメタファ)である。死を継続的に意識するためには、小さな死のシミュレーションを繰り返していく必要がある。まずは震災の意義について考え直そう。社会人的観点からは震災を強制合同退職と捉え直すことができる。つまり震災は肉体的な死とは別に、失職という形での社会的な死の可能性を提示してみせた。ここでは社会的な死=退職という等式が浮かび上がる。ここを足がかりに反社会人サークルの考える死生観をモデル化しよう。

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 死を思い出すには日々の心がけが重要になる。だからといって安易に「死」を生活に取り込むだけではいけない(具体的な失敗事例は後に記す)。そうではなく、もはや当たり前のように「死」が身近に存在することを識るのが肝要である。そのためのツールとして、図(2)インセプションモデルが有効である。

 AKB48『10年桜』のPV監督である高橋栄樹が次のようなことを言っている。「入学とは誕生で、卒業とは死。(中略)もしかすると学校って、生と死のサイクルを擬似的に体験する場なんじゃないか、っていうね」これはわれわれ反社会人サークルの考える死生観と非常に似ている。どういうことか。

 モデル図にあげているのはほんの一例に過ぎないが、生活における対立行為は生と死のメタファとして解釈可能だ。反社会人サークルのテリトリでいえば、入社が生で退社が死に相当する。それどころか、労働することは生であり、労働の一時解除=トイレに行くことは死だとも言える。われわれはトイレに行くというごく生理的な現象において、小さな死と再生を無意識にシミュレートしているのだ。そのことを意識することができるかできないかが大きな差異となる。小さな死を知ること=レイヤーを一段降りることを知ることが反社会人への第一歩となるのは間違いない。

 人生はときにゲームに喩えられる。しかし、最終的には全員100%死ぬのだ。これは勝ち目のないゲームなのだ。だから勝とうとするのではなく、負けないようにする必要がある。

 負けないための方法論、それは殉職しないための意識改革だ。あらためてインセプションモデルを眺めてみよう。殉職の一例である自殺というのは自らレイヤを一気に駆け下りる行為だ。しかしわれわれは一レイヤ下がるという選択肢をインセプションモデルから学んだ。自殺をしないためにはどうすれば良いのか。退職することでレイヤを下げる。日常においては、つらいことがあったらトイレにこもってレイヤを下げる。

 われわれはまたレイヤを下がったあとに再び上がるという選択肢も知っている。トイレに篭り続けることはできない。いつかはその扉を開くのだ。何らかの理由で強制的に退職状態に陥った場合でも同様だ。われわれは再就職という選択肢を知っている。再チャレンジ可能な社会はすぐそばにある。

 本特集「死」を通じてわれわれ反社会人サークルは一貫して同じ事を言い続けてきた。それは「避けれるものは避けよう」である。社畜は働くために生きていて、反社会人は生きるために働いている。どちらが本質的かは言うまでもない。

 インセプションモデルはひとつのモデルに過ぎないが、その思想はあらゆる分野に適用可能だ。自分の状況を客観的にモデル図に落としこんでみると、意外な選択肢の存在に気付かされることだろう。同時に死の身近さもわかるはずだ。

 だから「死ぬ気で働く」「死んで詫びろ」というような表現は軽々しく用いるべきではない。それは自分だけは死なないと思い込んでいる社畜的発想である。反社会人サークルの主張はシンプルだ。

 社畜もいつか死ぬ。生きろ!

死の失敗事例

「自殺サークル」なる社会人サークルを作ってみた!
園子温監督の2002年の同名映画に触発されて社会人サークル「自殺サークル」を設立したAさん。自殺サークルはお互いに「あなたはあなたの関係者ですか?」と質問しあうだけの簡単な活動内容で、確かに死を意識することが日常的に行えるようになりました。しかしそんな意識の高さとは裏腹に、家庭環境も悪くなり、もともと少なかった友達もわたしから離れていきました……。

そもそも「社会人サークル」は駄目です。悪です。だからこその「反=社会人サークル」なのです。そんなものは毎週末に開催されているイケてないBBQと一緒です。恥を知りなさい。


ジョブズの教えを守って後輩を指導してみた!
マカー(Macintosh信者)ゆえに会話の端々でWindowsをdisりながら、偉大なるジョブズにならって、後輩に対して彼が失敗するたびに「殺すぞ!」「死ぬ気で働け!」と言うようにしたBさん。これで彼も日々の生活で死を意識することができるようになったはずだ、と内心ほくそえんでいました。しかしある日、彼が交通事故で死亡してしまいました。なんでこんなことに……。

そもそもジョブズは部下に「殺すぞ!」なんて言っていません。マカーを名乗るのなら、それくらいちゃんと調べるべきです。あと後輩さんの件はご愁傷様でした。恥を知りなさい。


死を意識しようと原発関連案件を受注しました!
死とは縁遠いホワイトカラーながらも、せめて仕事の中で死を意識してみようと、誰もやりたがらなかった原発関連案件を受注したCさん。とりあえず馴染みの下請け会社に見積もり依頼したのですが、なんかぱっとしない感じの金額提示。ごねにごねて価格折衝に成功し、上機嫌で実家に帰宅すると、年老いた父が作業着に安全ヘルメットを小脇に抱えて家を出ていくところでした……。

現代日本の労働環境において労働集約型産業ほど時代遅れなものはありません。労働ではなく、知識を集約しましょう。三人寄れば文殊の知恵です。あとただちに影響はありません。恥を知りなさい。

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