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反社会人コラム「予算」

2012年5月6日発行 ロウドウジンVol.4 所収

反社会人サークルでピックアップした、いまもっともアツい反社会人に同一のお題でコラムを寄稿いただく競作コーナー。今号のお題は「予算」。辞書的な意味では「ある計画のために、あらかじめ見積もった必要となる費用」だが、立場が変われば意味も大きく変わるはず……。

@takekatanmuri

「Time」という映画が流行ってますね。これが出る頃には流行ってましたねでしょうか。ハイパーざっくり粗筋を言うと、人類は25歳で老化が止まる。25歳になると生まれたときから与えられている1年の残り寿命が減り出します。25歳以降も生きたいならば、寿命を働いて稼ぐというお話。仕事で得られるのは時間で、時間を切り売りして生活するという設定ですね。聞いた話だと、珈琲一杯に4分だとか。まあ見てないんで間違ってるかもしれないんですけれども、ここまでは前置き。

 さて、この映画見ていないんで面白いかどうかは知らないんですが、設定は社畜として身につまされる話だなあと思う訳です。なぜなら現実世界だってそうですもんね。時間って多分人間にそこそこ平等に与えられた予算なんですが、その時間を切り売りして生活しているのが我々社畜なんですよ、きっと。

 ちょっと計算をしてみましょうか。森羅万象全ての物事は計算する事から始まるとか多分森博嗣とかガウディあたりが言ってる。

 計算の簡単のために時給1200円としましょうか。これが高いのか安いのかは分からないですが……。まあ年齢とか会社にもよるでしょうからね。でも、ビルゲイツに話したら多分めちゃくちゃ爆笑されるんだろうことは想像に難くは無い、なお私の時給よりは高い模様。ウケル、ウケろ、ウケてくれよ……。

 時給1200円だと、1分あたりの給料が20円。鬼畜米英が大好きなスターバックスのスターバックスラテがトールで380円らしい(あんまり行かないので、よく知らないですがgoogle先生は正しいと信じたい)ので、19分分ですね、読み方は「じゅうきゅうふんぶん」ですよ。トッピングを盛り盛りすると、お値段驚きの3000円ってのもあるらしい、寿命換算で150分!! なんと、150分ですよ、上司にいびられ、先輩にdisられた涙の150分、若者よ、そんなにまでして珈琲を飲みたいのか。そしてどうした現実なんだこれ、映画よりシビアじゃねーか、DOUNATTENDA!! 責任者出てこい。

 そうは言ってもスキルも持たない悲しき社畜の性、日銭を求めて今日も働く訳です。

 ええ、なんかテーマと全然関係ない事書いたなと読み返して思いますが、大丈夫仕事も大体こんな感じでやってるから。

 なにはともあれ、折角与えられた予算、是非とも有意義に使いたいものですね。

 2012年3月27日 死んだ魚の眼をしながら 凍狂にて

著者プロフィール
@takekanmuri(⺮)日々社畜。この道より我を活かす道無し。田舎に帰って女子高生になりたい。

@taky931

 気持ちのよい日曜日の朝。自宅から少し離れたカフェまで散歩し、そこで朝食をとった。二〇一二年の四月二二日のことだ。カフェのオープン席は広い並木道に面していて、そこで僕は丸いパンと、三種類のチーズと、四種類のハムを食べ、まずまずのコーヒーを飲んだ。パンにはいっていた向日葵の種は、綺麗なクロウタドリにあげた。席からは共産主義時代に建てられた、直方体の大仰な建物が見えた。その建物は人が住むための家というよりは、なにかの超越的モニュメントのように見えた(例えば巨大なダムやサターンロケットのような)。それは実に共産主義らしい建物で、いかにも緻密な計画と予算とともに建てられた様に見えた。そしてその計画と予算は、早々に破綻したであろうことも予期できた。

 いかなる世界線においても、予算は常に破綻する。それは万古普遍の真理だ。あなたの会社でも、営業部の予算は必ず未達となり売り上げは減少し、開発部の予算は必ず超過し費用は増大している。それは朝食のトーストが必ずバターを塗った面を下にして落ちるのと同じくらい、確かなことだ。社会人に許される最大の自由は、鳥が重力に文句を言わないように、その法則を受け入れ、その制限の中で暮らすことである。予算法則は絶対である。決して逆らうことなかれ! この法則を認めないものは、結局、予算と現実の間の巨大な空隙に飲まれ消え去るだろう。古の共産主義国家のように。

 予算技術――「ある期間の収入と支出の推定技術」――は、そのほか多くの技術(核エネルギーやロケット、統治システムや広告、マスメディア)と同様に人類のために発明された。しかし他の技術と同じように、すぐさま主従は逆転した。人は自らの仕事のために予算を立てるのをやめ、予算のために人が働くようになった。予算によって何をするかでなく、ただ予算そのもののために、多くの人が一生を捧げた。予算は世界システムとなった。人々は予算のために会議をし、会議の予算を決めるために会議をする。予算のために書類をつくり、書類を承認するために人員を雇い、人員を雇うために書類をつくり、その書類を承認した。書類に美感を与えるために多種多様の判子装飾をつくり、判子を発注するため、また予算を作った。平社員から始まり、主任、係長、課長代理、シニアエンジ(中略)バイス統括(中略)本部長まで続く曼荼羅のごとき文様は、予算文明の粋といって良い。予算という世界システムに従い、その枠組みの中で生き、子を育て、そして死ぬ。それが社会人である。予算を使って何かをしようとしてはならない。ただ予算を維持し、次の予算を獲得するためだけに生きよ。

え。じゃあ、反社会人はどうしたって? まあ、あれだ。ラノベの超能力者とか魔法使いと同じだ。世界法則の裏をかいて、何かをするために予算を使うのだ。ただ、そのときは気をつけろ。あなたが予算を覗き込むとき、予算もまたあなたを覗いているのだ。油断をすれば君は、ただただ、予算のために生きる名状しがたき社会人に成り果てるだろう。自らのSAN値を過信するなかれ! 油断するな。迷わず撃て。弾を切らすな。稟議には手を出すな。それが反社会人として生き延びるコツである。

著者プロフィール
@taky931 (Taky♥) 立派な社会人(中学生相当)「語学が出来なくても笑顔でどうにかなる」との信念で海外暮らしを始めたが、最近自分がコミュニケーション弱者であった事を思いだして戦慄している。

@murashit

豚の陳腐さについての報告

 無軌道である、というよりは、怠惰と逃避。僕自身の話だ。

 月末、つまり学生の頃ならば仕送りの、「就職」してからは給料日の前になると必ず困窮してしまう。物欲や食欲(というか食事を作ることの面倒臭さ)、なんとなく寂しいから飲みに行く……といったことが、預金残高がそれなりにあるうちには自制できず、それが無くなってしまえば明日の食い物とクレジットカードおよび光熱費の支払いに怯える。一人暮らしをはじめてから七年以上、そんな生活を繰り返してきた。それでも生きてこられたのは、「食えないなら食えないで、寂しいなら寂しいで、しばらくは構わないだろう。インターネットと本だけはそこに山ほどあるわけだし」という、月初の自分とはかけ離れた月末の人格と、親への金の無心の賜物であるのだろう。両親には感謝している。

 しかし今日ここで述べたいのは両親への謝辞ではない。そんなものは直接伝えればよいしそうすべきだ。ではなんなのかと言えば、先述したうちの前者、月初と月末の性格が変わってしまうことについてである。

 これはもちろん、金がなければ我慢できる程度のハードルでほいほい金を出してしまう(たくさん貯めなければ実現できないことに対して淡泊である/想像力がない)という、言ってみれば「夢もなければ半月先のことさえ考えない」というどうしようもない性格の両面として考えるのが適当であろう。それでは、僕はいったいどういう行動原理で動いているのだろうか、もう少し詳しく考えてみよう。

―――

 そのためにはまず、毎月の特定の日のことから説明するのがいちばん見通しがよい。なにを隠そう、クレジットカードの締め日たる毎月16日である。この日までの利用は次の月の10日に引き落とされ、この日以降の利用は再来月に引き落とされることとなる。

 ところで、この日の預金通帳の残高はどのくらいかといえば、まさにそのクレジットカードの先月分の引き落としから既に一週間が経っており、(後述するが)厳しくなってきたと考えはじめる時期にあたっている。するとどうなるか。クレジットカードの引き落とし額(再来月の10日だ!)がゼロからはじまるため、書籍、飲み代等の浪費をはじめてしまうのである。「現金は少ないけれど、月末(収入のある日は27日頃)くらいまでならクレジットカード方面に振り分ければ大丈夫でしょ!」

 既に論理がおかしいが我慢して頂きたい。ともかく、そこからしばらくは浪費をクレジットカード方面に振っているため、預金残高もそれほど厳しくないかな、といった気持ちになる。もちろん前段で既に述べたとおり、ぜんぜんそんなことはなく、正直厳しいのだが、気分というのは恐しいものだ。結果として、食費が高止まりしたままになってしまう。はじめから貯金する気などないのだから、月末までにちょうど使い切るくらいのペースで、「衝動的に美味いものが食いたくなったらクレジットや!」などと考えるわけだ。

 しかし当然そのままにしておくわけにもいかない。しばらくするとクレジットカードの引き落とし額が徐々に膨らんでくるのに気付く。後述するように、月末を除けばAmazonでの書籍購入は(衝動買いを除いたとしても)コンスタントに続いているため、さすがに引き締めなければならぬという気になってくる。その弱気を利用してすぐに浪費をやめればいいのだが、そうではない。それなりに厳しいながらも、現金は25日までに使い切るペースでと考えているわけだから、口座のなかに、あるにはある。ないことはない。そして、そこに金があるのなら使ってしまうのが人情というものではないか。

 先ほど「使い切るペースで」と考えていたばかりだからさすがに自制が効いている部分がないわけでもないが、飯が食えているうちには衝動なんて衰えないものである。浪費への利用はクレジットカードと現金とで半々くらいになってくる。この時点で既に覚悟はついている。預金が底をつくことくらい、もう分かっているのだ、パンがなければパンを食わなければいいだけなのだ。そして浪費は進む。犬は吠えるがキャラバンは進むのだ。

 そうして、ついに銀行から金が下ろせない程度に資金が尽きる。一日におにぎりひとつと水だけだったりする。それが休日ならばもっといい、一日じゅう寝ていればいいだけの話だ。煙草はコンビニでクレジットカード払い(ついでにおにぎりも買っちゃおう!)。煙草は腹が膨れる。浪費しようなんて気が起こるはずもない。預金残高は三桁のまま、それが一週間かそこら続く。

 月末。神は「収入あれ」と言った。すると収入があった。これが天地創造である。俺の生活もここから新たに造りあげていくのだと意気込む。そして新しい月がはじまる。変えられない運命に抗って生きる人間の姿を見せつけてやろうじゃないか。しかしそんな意気込みなんてもの、そうは続かない。人間は堕落するものなのだ。

 この時点でおよそ10日後にクレジットカードの引き落としが待ち受けている。その金額は既に半月以上前から知っていたはずなのだけれど、まだ先のことであったし、その日その日のことを考えなければならなかった。終わったことは所詮終わったこと、というわけだ。ちなみに、ここで「なぜ半月前には『使い切るペースで』などと考えてしまったのだろう?」なんてことは考えない。というか、考えたとしても半月後には忘れているのである。

 さて、引き落とし日現実に目の前に迫ってくるのを見てどう考えるか? 答えは「預金残高がまだまだあるからなんとかなるだろ」である。この気の緩みが危険で、Amazonでの衝動買いはこのほぼ時期に集中していると言っても過言ではない。引き落とし日まで2週間を切ったあたりから、「この衝動買いが今月の最後だ(※まだ月の一桁台なので半月後には忘れているパターン)」と考えて買ってしまうのである。引き落としのことを考えると不安になるから今日のところは買うしかないね。何を言っているのか分からないと思われるが、自分でも何を言っているのかよく分からないのだ。もちろん、現金があるのだからそのぶん食費も復調しており、預金残高は少しずつ減っていく。

 そうして引き落しである。いくら気が緩んでいたからといって、さすがにすぐさま生活が困難になるわけではないけれど、はじめに書いたとおり、かなり厳しくなる。だいたいさ、先月先々月とクレジットカード使いすぎなんだよ! と言っても仕方がない。このあたりから浪費の元手が徐々にクレジットカードのほうへ振れてくる。先程「これが最後の衝動買い」と言った口でこれである。「だってさ、このクレジットカードの支払いは来月なわけだしね!」

 そうこうしているうちに16日がやってくる。振り出しに戻るというわけだ。

―――

 以上、書いていて暗澹たる気持ちになってきたが、これが一ヶ月の生活である。当然の報いたる借金に急かされ生きる消費社会の豚の姿が伝わったなら、筆者としてこれ以上の喜びはない。

追記:
 ちなみにこれを書いている今日は4月15日、原稿の締め切りはとうに過ぎているが(申し訳ございません)、クレジットカードの締め日はまさに目前。これからやってくるノーマネーの予感とともに、この原稿もフィニッシュです。

著者プロフィール
@murashit (むらしっと) わたしはインターネットでありたい、わたしはインターネットを殺したい。殖えすぎ繋がりすぎた種の本能なのか、あなたとわたし、ひとまず試してみませんか?


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