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自由と自律

久々にちょっと、自己開示的なことを書いてみようかな。

そして数回に渡って、僕の価値観について、自分の整理もかねて書いてみようと思う。



そもそも「価値観」って何だろう。

僕の理解としては「何かを決める時の判断基準」だと思っている。

例えば、友人らと旅行に行った夜、次の日の体調を犠牲にして遅くまで起きてその場を愉しむことを優先するのか、あるいは次の日も同じくらいのレベルで愉しむために、夜は良きところで先に寝るのか(両立できる人はまた別の話として)

僕は、昔は前者だったこともあるけど、やっぱり寝不足だと次の日が快適に愉しめなくなるから、後者を取ることが多い。
この場合、僕の価値観は「快楽」や「場の空気感」よりも、「自律」「快適」「健康」の方が強いということだ。
前者を無下にしているわけではないが、それよりも後者の方が強いという話。

で、本題に入ると、今日考えたいのは「自由」と「自律」。

似た文脈で、時には同じような意味で使われることがあるけれど、僕にとっては大きく違う。

自分が通い働いていた学校は「自由な校風」と言われていたが、教員たちは「自由」という言葉をあまり使わず、「自律(自立)した18歳」を掲げていた。
このことからも、この二つは違うのだけど似ていて、ときに混同されてしまうように感じる。

そして、僕が大切にしているのは「自律」だ。「自由」ではない。

それを強く実感したのは、今月初頭に訪れたNYでのこと。

NYはまさに「自由の国」の「自由」が濃縮された街だった。

様々な人種の人が入り乱れ、互いを尊重しているのか気にしていないのか、とにかく個の匂いが強い。
そこかしこで音楽を奏でている人がいれば、叫んでいる人も寝ている人もいるし、マリファナも堂々と売られていた。

「カオスという秩序」があるのかもしれないけれど、まぁそれくらい「カオス」という言葉がぴったりだった(カオスが悪いというわけではない)

そこで計7日を過ごしたが、やはりこの「自由」に僕は、心地よさや快適さを感じることはなかった(エキサイティングで楽しいとは思ったけれど)。

そういえば、海外へ行くのは好きなのだけど、いつも海外に行って日本に帰ると、「あー、やっぱ日本って素晴らしいな」って思うのだ。

たぶん僕は、秩序だったものが好きなのだ。

それも、統率された秩序ではなく、自律した秩序。
自ら考え判断し行動した末に生まれた秩序だ。

そう考えると、「自律」とは「自由」の先にあるものなのかもしれない。

あるいは、「自律」の前提としての「自由」とでも言うべきか。

規則や管理によって統率されていない「自由」があるからこそ、人は「自らを律し、自らで律する」ことができる。

また思い出したが、僕は海外旅に行くとき、何も予定を立てずに行くということをあまり好まない。

というよりむしろ、「ここに行ったら、この日数の中でもココとココには行って、これは食うんだ」と、ある種のミッションめいたものを掲げ、それを自力でクリアしていく過程を楽しいと感じることが多い。

それはまさに「自律」の具現ではなかろうか。


僕はつい先月末に退職した。

日本の学校というのは1日がお馴染みの「時間割」というもので定められていて、こと時間について「自分で決める」という機会はとても少ない。

そんな環境から放り出されて僕はちゃんと生活できるのだろうかと心配もしたが、今のところ、自分で自分の1日を決められるのはとても楽しいし、その通りにできたら「よし、今日も生きたな」という感覚がして満たされる。

最近みんなから「なんか全然顔が違うね」と言われるのは、解放感もあるのだけど、むしろ解放感からの「自分でやれている」という事実が大きい気がする。

これから仕事について考えていくところだから悠長なことが言えているだけかもしれないけれど、いや、むしろ仕事について考えるからこそ、「自律」は手放したくない価値観の一つだ。


これは、僕が一番大事にしている価値観にも間違いなくつながっている。

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