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他人ん家の犬
最近、犬をよく見る。
しかも何故かわからないが、パグやフレンチブルのような、ぎゅっとした顔つきの犬によく遭遇する。先週はセブンイレブンの前で鎮座するフレンチブルをみた。昨日、信号待ちをしていると、チャリで通り過ぎていった男性のリュックからパグが顔を出していた。
犬は人間と違って気まずいという概念がないのか、一度目が遭っても絶対に逸らさない。むしろ興味津々といった感じで、目を輝かせている。こちらも同じ生き物として負けていられないため、向こうが飽きるまでは絶対に視線を外さないことを心がけている。
昔、「トマト」という犬がいた。
トマトはご近所さんに飼われていたダックスフントで、変わり者の彼は室内犬の癖にいつも家のガレージで過ごしていた。
ご近所さんのガレージの入り口は網戸になっており、トマトは日がな一日外を眺めていた。トマトは変わり者の上にバカなので、道行く人全員に吠えまくっていた。何が彼をそうさせるのかは全く理解できなかったが、トマトにとってはそれが日課なのだった。室内犬がキャンキャン吠える姿はどうにも迫力に欠けるため、道行く人はみんな微笑みながら通り過ぎていた。
トマトは歳をとってもガレージから外を眺めていた。さすがに道行く人々全員に吠えるような元気はなくなり、冷たいコンクリートに寝そべって日向ぼっこをしていることが増えた。私はご近所さんの前に通るたび、トマトにちょっかいをかけていたので、それはもう一段と吠えられていた。だから顔を覚えられており、歳をとったトマトは私を見かけると「ワフッ」と一吠えだけしてくれていた。いつの間にかトマトをガレージで見かけることは無くなった。
父方の祖父の家には「アイジ」という犬がいた。
アイジはもう何というか、雑種中の雑種という見た目をしており、ぼさぼさの毛並みに黒い顔がドンと存在する野性味あふれる犬だった。アイジは今日日珍しく、ちゃんと犬小屋で飼われていた。祖父が昔作ったという木製の犬小屋に体を押し込めて、銀色の鎖につながれていた。アイジは「番犬」とイメージして一番最初に頭に浮かぶ犬と全く同じ風貌をしているため、幼少期の私は少し恐れていた。
アイジの日課は、夕方の祖父との散歩だった。強面のアイジも、祖父がリードをもって犬小屋に向かうと嬉しそうに飛び跳ねていた。小一時間ほど散歩をして二人は帰ってくる。いつもその姿を私は見ていたが、そこにははっきりとした信頼関係が見えて、少しうらやましく思っていた。
昔、コタロというダックスフントを飼っていた。
物心がついたころ(つまりは3歳なのであるが)からコタロとは一緒だった。
コタロは比較的私に懐いてくれていて、常に後ろをついてきてくれた。
幼少期の私は未熟故、それがどうにもうっとうしく何とか撒けないものかと苦心していた。とはいえ、私も大きくなるにつれてコタロに対して寛容になり、そこからはかなり仲良くなった。私が座って漫画を読んでいるといつの間にかコタロは来て、私に寄りかかって眠る。私が自室にいるときも、扉を短い脚でカチャカチャとひっかき、入れてくれと催促してきた。
ある日、父親がペットカメラを買ってきた。コタロは留守番することが多かったため、一人でいる様子を見てみようということで早速設置した。後日、カメラの映像を見ると、コタロはリビングのテーブルによじ登り、30分に1回ぐらい遠吠えをしていた。一人きりになって気が大きくなるタイプなのか、単純に寂しいから吠えていたのかは分からないが、長年過ごしてきてそんな一面があったのかと気づいた瞬間であった。
今はトマトもアイジも祖父もコタロもいない。
ご近所さんのガレージはがらんとしているし、祖父がいた家には今も犬小屋がポツンの佇んでいる。犬アレルギーの私は常に鼻の調子が悪かったが、コタロがいなくなった今、すっかりそんなこともなくなった。
でもご近所さんの前を通るときは必ずガレージを見るし、犬小屋は綺麗に保たれている。今でも家の中を歩くときは、何となく足元に気を付けて歩く私がいる。犬と暮らすということは、1つ不便な癖が増えるということなのかもしれない。