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特集企画「シンボルの輪郭~Shape of "Rotary"~ 第1回」

信じている。その輪郭がきっと円いことを。

高田馬場駅前ロータリーの散乱ゴミの存在を、私たちが地域課題として問題提起してからはや2年。その「問題認識」はどのように広がっているのか、あるいは広がっていないのか。散乱ゴミの存在は、なぜ問題である/問題でないと思うのか。高田馬場の地で交わる、ひとりひとりの「あなた」の視点から、散乱ゴミの問題、その「輪郭」を、この早稲田キャンパスに浮かび上がらせる。

私たちは、11月5、6日に早稲田キャンパスにて3年ぶりに対面開催される早稲田祭2022にて、教室展示企画「シンボルの輪郭〜Shape of “Rotary”〜」を開催します。これは、地域住民の皆様やロータリー広場の利用者の方々、早稲田や高田馬場に集う学生、行政や企業の方々など、高田馬場や早稲田の地域社会における様々な人びとの貴重な声を取り上げることで、ロータリー広場の散乱ゴミ問題について知り、理解し、じっくりと考えられるような空間を創造することを目指しています。

このコラムでは、この展示会開催に先駆け、これからの1ヶ月間、全3回にわたって、テーマ「シンボルの輪郭」に関する会員一人ひとりの考えや、展示会準備の模様をお伝えしていきます。ぜひ、散乱ゴミ問題に関する会員の考え方の多様性を理解していただくとともに、展示会企画に興味を持ち、足を運んで頂くきっかけになれば幸いです。

第1回の今回は、副幹事長の中村竜之介(文化構想学部3年)が、これまでの活動を通して考えたこと、感じたことを書き尽くします。


ロータリー回想録 ~2022・夏の終わりの、あの街で~

  中村竜之介

四ヵ月がたった。うだるような暑さの中、工事用ガードフェンスで作られたバリケード は新しい街の光景としてすっかり馴染んでしまったように見える。窮屈になった陸の孤島において歩みを止めるものはもういない。そんなことをしている間にも、信号は赤になってしまう。フェンスに一か所だけ存在する扉の部分には太い鎖が幾重にも巻かれ、ささやかな反抗の証として(あるいは学生がただ面白がっただけかもしれない)、南京錠が数十個ぶら下がっている。僕は「愛の南京錠」と名付けられたフェンスの様子を撮影しようと 手持ちのアイフォンを構える。

2021・夏の終わりの、あの街でという副題で書いた昨年のゼミ選考課題冒頭の引用である。高田馬場駅前ロータリーが完全封鎖されたのが二〇二一年五月一八日のことであるから、逆算して選考課題の執筆が九月、選考課題が提示された際にゼミ生の夏課題と同様のテーマであることは伝えられていたはずで、少し冷静に考えてみれば当たり前の事ではあるが、あれから丁度一年の月日が過ぎたことになる。今なお第七波に四度目のワクチ ン接種とコロナウイルスへの懸念が拭えない現状に対する驚きは当然のようにあるものの、 昨年、一昨年に比べれば、至る所で一〇〇年に一度の危機と煽られ続けてきた人々の警戒心もまたピークアウトしたように感じる。

新宿区によるロータリー広場の一部閉鎖に端を発する昨年の完全封鎖の背景には間違いなく新型コロナウイルス感染拡大防止の側面があった。当初、一部閉鎖は植栽捕植工事の実施に伴うものであると主張した新宿区も、後の政府による緊急事態宣言の延長を受けて広場の出入りを禁止する完全封鎖を決断してからは、その理由について「声掛けの効果が見られず閉鎖部以外での混雑や路上飲酒などが著しいため、踏み切った」「広場を完全封鎖することにより、人々が広場に滞留することなく通過するので、三密を回避でき、新型コロナウイルス感染症の感染リスクの軽減につながると考えている」とはっきりとその理由について述べている。また、当初の目的であったはずの植栽捕植についても解放後の目立った変化といえば、空き缶を置くのに丁度良さそうな大きさのプランターが広場の数か所に設置(解放後数日で植木が折られ、枯れてしまう鉢もあった)された程度であり、植栽捕植工事を長期間にわたる大規模な封鎖の理由とするには不十分と言えるものであっただろう。閉鎖について地域住民や駅の利用者からは「ロータリー広場以外での路上飲みが増えてかえって迷惑」「喫煙所まで封鎖されてしまったので路上喫煙や吸い殻のポイ捨てが増えた」などという意見も多く聞かれ、決して閉鎖の判断を肯定するものばかりではない。一方で閉鎖の真の目的であったであろうコロナウイルスの感染拡大防止については、明確にその実績、効果を示すことが困難であるために、閉鎖の意義について否定派に理解を求めることもまた難しい。

ロータリー広場が解放されたのは閉鎖から一九七日後、十二月一日のことである。高田馬場を日頃利用する人でもロータリー広場の閉鎖から解放までを記憶している人はそれほど多くないだろう。中には閉鎖していたことすら忘れている人もいるかもしれない。冒頭の引用でも述べているように、閉鎖によって設置されたバリケードが街の一部として馴染むのも早ければ、解放によって戻った日常に人々が再び馴染むのはより容易いことだ。そして移り変わりの激しい東京という土地柄が、そのような我々の記憶の移ろいを後押ししているのだろうと執筆にあたってこの一年を軽く振り返るだけで考えさせられる。当然、変化したのは陸の孤島のようなロータリー広場だけに限った話ではない。駅前の名店ビルに入っていて、長年にわたり学生に愛されてきた居酒屋「酒の蔵だるま」は今年四月末をもって閉店し、早稲田口を出てすぐの幸寿司と書かれた看板でお馴染みの立ち食いそば 「吉田屋そば店」は七月末をもって四六年の歴史に幕を下ろした。閉店に至った理由としては、前者はコロナウイスルによる客数の減少、後者は付近一帯の再開発によるものだと いう。時勢や駅前の再開発とその理由もまた二〇二二年の東京という姿をこれでもかと反映しているものだった。筆者も吉田屋に閉店間際の七月三〇日の朝に訪れたのだが、小さな店内は別れを惜しむ常連客や出社前のサラリーマンでにぎわいを見せていた。店主の草野さん(青髪が特徴的なおばちゃん)が話してくれた「東京はぐちゃぐちゃになっていくし、人生は何があるかわからないから、やりたいと思ったらすぐに動かないとダメだよ」 という言葉はどこか寂しさを含んだものであったことを、客のリクエストに応えていくうちにどんどん濃くなったというそばつゆの特徴的な味と共に覚えている。そういった昭和から続く老舗の他にも閉店や店舗の入れ替えは筆者が把握していない店も含めてもっと多く存在するだろう。コロナ禍の学生街の飲食店が抱える問題やその可能性についてもまだまだ書けることはあるが、それはまた別の機会に譲って、ロータリーを通して街を見るという本題へ戻ろう。

缶391個
ペットボトル24本
瓶22本
タバコ609本

ロータリー広場解放の翌日、十二月二日に捨てられていたゴミの集計結果である。缶に至っては集計開始以降最多となった。その日、解放直後ということで多くの人が広場に訪れることを予想していた我々は夜の時間帯に合わせて清掃活動を行うことにしていた。二 十二時をまわって、何処からともなく若者たちが広場に集まってくる。飲食店に対して時短営業を迫る風潮が現在に比べてまだ強かった時期だ。半年以上ぶりのロータリー広場の解放はそんな息苦しさの残る日常において、どこかお祭りのような雰囲気をもって学生たちに迎えられた。久々に賑わう広場の光景を眺めて過ごしながら時間を潰して二十三時、 人の数がピークを迎えるこの時間から僕たちはごみ拾いを始める。選考課題の執筆の際には活動内容について、ロータリー広場の閉鎖時における活動について書くに留まったため、 広場内の清掃活動について書く機会はなかったが、夜の活動は朝のそれとは比較にならないほどの覚悟を必要とするものだ。実際に普段そのような空間に慣れていない参加者からは「怖い」という声も挙がるほどである。泥酔者が多いことによってトラブルに巻き込まれるリスクも当然のようにあるし、暗い中で割れた瓶が散乱していることなど、身体的なリスクも朝の時間帯より高いと言えるだろう(もちろん会員はボランティア保険への加入が義務付けられてはいるが)。ではなぜ危険な夜の時間帯にわざわざ清掃活動を行うのか。 各々理由は考えられるだろうが、ロータリーの会というサークルとして、意義の大きな部分を占めるのは「捨てる人に拾う人の存在を認識してもらうこと」、そして「拾う人が捨てる人の存在を意識すること」だ。一つ目については、ロータリーの会が発足した二〇二〇年から着実に会の認知度は増している実感がある。おそらく早大生の過半数は、名前は聞いたことあるという程度にはロータリーの会についての認知度はあるのではないだろうか。けれどもここで掲げる認識とは、単なる会の存在の認知ではなく、拾う人の存在に気付き、その上で自身の行動を見直す契機とすることまでを指すものだと筆者自身は考えている。そういったことを踏まえると、現時点でのロータリーの会の存在はあくまで話のネタ程度であり、捨てる人の行動を変えるまでには至っていないことも実感としてある。実際に活動中も会の存在を知った上で茶化されること、冷やかされることもしばしばである。 そうなるとむしろ重要になるのは、二つ目に挙げた「拾う人が捨てる人の存在を意識すること」だ。これは言い換えると「活動の意味について一人一人が思考する」ということと同義であるかもしれない。ここでも我々は再びボランティアの持つジレンマと向き合うことになるのだが、ボランティアはその語義の通りあくまで自発的な取り組みであるため、 参加する理由が各々で異なることに基本的には何の問題もないという特性がある。極端な話、早起きしたいから、履歴書に書きたいから、といった利己的な理由でも決してそれら は否定されるものではない。同じ団体という形態をとっていても、そうした意味で運動系の部活動やサークルのような同じ目標へ向かう統率力はない。ただ一方で、履歴書に書きたいという理由から参加したゴミ拾いをきっかけとして、どこまでゴミ問題に思いを馳せることができるかについても想像に難くないだろう。そういった一人一人の活動者に少しでも問題を問題として認識してもらうこと、夜の惨状を目の当たりにしてもらうことはそのきっかけとして、朝の時間帯に行う嵐のあとの静けさと言えるような広場での活動だけでは得られない知見を与えてくれるものだと思う。隗より始めよとあるように、問題を根本的に解決するためにはお互いを相互に理解する必要があり、捨てる側に対して一方的に 感情を押し付けるのではなく、ボランティアをする側の持つ誤解や過信に自らが気付く、あるいは気付こうとする姿勢が不可欠ではないか、というのが曲がりなりにも二年間大学でボランティアをしてきた僕の意見である。相手を見ようとしないうちは何をしても意味がないのである。

解放後のロータリー広場の治安については先ほど示した集計結果の通りである。コロナ禍による様々な理由からそもそものロータリー広場の利用者が多少減少しているという理由を除けば、閉鎖前と比べてゴミの量に大きな変動は見られない。その日も広場の中を、ごみ袋を持って回る僕たちのすぐそばで、空き缶が蹴り飛ばされる甲高い音が何度も響き渡った。僕はこの音だけはどうしても苦手である。

「これも入れて良いですか?」清掃をする僕にふと声がかかる。顔を上げてみると目の周りをほんのり赤くした男子学生が空き缶片手に立っている。声を掛けた彼にはきっと悪気はないのだろう。僕もそれは理解しているから基本的には断ることはしない。けれど内心、どこかやりきれない気持ちを抱えながらである。僕たちの活動は区が雇うゴミ収集員のそれでもなければ、可動式のゴミ箱でもない。僕たちのボランティアは路上にゴミを捨てさせないため、ゴミを持って帰ってもらうために行っている行為だ。もし僕がその場にいなかったら結局路上に置き捨ててしまうのであれば、この活動に意味はない。繰り返しておこう、声を掛けた彼に悪気はない。でも僕たちにも目的がある。ロータリー広場解放後、久しぶりに感じるこの行き場のない気持ちを味わいながら黙々と清掃を続けた。

嫌なこともあれば、良いこともあるのが夜のロータリーだ。活動をする僕たちを応援してくれる存在もいるし、酔った勢いも手伝ってか、一緒になってゴミ拾いに協力してくれる学生もいる。ただ、個人的に嬉しいのは捨てたり拾ったりといったお互いの立場を超えて、同じ学生として仲良くなる瞬間だ。実際にその場でSNSを交換したり、家が近かったということで途中まで一緒に歩いて帰ったりということもある(その人は学生ではなく三〇歳の自称有名人であったが)。清掃活動中にこちらから話しかけていてはきりがないので、声を掛けられない限りは黙々と活動することが主だが、そうした出会いや交流は広場 の役割が機能していることを実感させてくれるという意味で大切な機会でもある。。

最近、特に夏休みに入ってからは、一時期は週の半分以上行っていた夜清掃の機会も格段に減った。夏休みということで、大学に来る機会の少ない会員が大半であることや、わざわざ夜にゴミ拾いをするためだけに出てくるということに対して気が乗らないという事情が背景としてあるのだろう。要するに人数が集まらないのだ。団体である以上、最低限の参加人数が確保できないのであれば、個人にかかる負担を考慮しても、活動を強行するべきではない。そうした考えに基づいて、夏休み期間中の夜清掃は週に一回程度の頻度にまで回数を減らしている(またその一日に限って雨が降るのである)。そうした事情もあって、今年度の一年生の大半は夜の清掃活動に参加したことがないのではないだろうか。 そしてそれは前述の「捨てる人の存在を意識する」という経験がないということに繋がってくる問題でもある。口では広場の有用性や必要性ということについて話していても、その実、自身は広場において良い思い出も、悪い思い出もないというのが下の世代の現状ではないだろうか。これは会の今後にとっても由々しき事態である。一方で、夜の活動は開始時間も遅く、危険を否定できぬものであるから参加を強く促すことはできない。ロータリーの会の活動に極力参加したいから、という理由で大学近辺に引っ越してきた筆者は改めて稀有な存在であったのだな、と後輩の姿を見ていると思わされるばかりである。そんな異端な存在として、拾う側である彼らに言えることは、翌朝、当事者がいなくなったロータリー広場を黙々と掃除だけしているうちは、その試みは虚空を掴もうともがいているのと同じであるということ、そしてそれに満足している会員がいるとすれば、最初からやらない方がましである、つまりロータリーの会は廃会処理すべきだということだ。

二年間、ロータリー広場のゴミ問題を通して、その背後にある街や人と向き合ってきた。 そうした中で変わらない思いもあれば、徐々に変化してくる部分も存在する、昨年のゼミ選考課題での自身の論考を振り返るとその点についても強く実感している。当時の僕はゴ ミ問題をあくまでも個人の道徳観に訴えることで解決しようと考え、そこに対するアプロ ーチを基盤として活動していた。当時の自身の考え方については拙文ながらもゼミ選考課題でその多くを反映させられているように思うので、詳しくはそちらを参照してほしい。 そうした揺るぎないと思っていた信念がこの一年で揺るぎ始めている。

https://www.rotary-waseda.com/post/special1   
「わかりあうということ ~2021・夏の終わりの、あの街で~」


けれど揺るぐという言葉がネガティブな印象を与えるのであれば、それは昨年以降新たな知見を増やし、考え方がまた変わってきたという方が適切かもしれない。最近の正直な考えとしては、空き缶やペットボトルなどはともかくとしても、たばこの吸い殻についてはポイ捨てを完全になくすことは限りなく不可能に近いのではないだろうか思っている。もちろんこの考えは 喫煙者の道徳観に見切りをつけたということではなく、ロータリー広場の構造的な問題を客観的に見ることができるようになってきたことによるものだ。高田馬場駅前ロータリー広場の、周囲を道路に囲まれた浮島のような設計は全国的にも珍しい構造である。さらに 特徴的なのは広場内の一部として喫煙スペースが設けられていることだ。そのようなそもそも独立したスペースの中にさらに独立した喫煙所があるという構造上、広場全体が喫煙所であるように認識されてしまうことがある。わざわざ喫煙スペースに入らずとも広場内 でさえあれば通行人に迷惑をかけることはないだろうと判断してしまう。当該箇所での路 上喫煙や吸い殻のポイ捨てが散見されるのはそうした理由がある。その裏付けの例として、 同じく新宿区内にある新宿駅東口喫煙所の周辺には全くとは言わないが、高田馬場駅前ロ ータリー広場ほどは路上喫煙や吸い殻のポイ捨ては見られない。新宿駅周辺の喫煙スペースは多数の歩行者が周囲を行き来する大通りに壁一枚で独立した形で存在しており、非禁煙者との距離が近い。そうした条件下であるからこそ、喫煙者は非喫煙者へのマナーを守ろうという意識を強く持つことになる。所定の位置で喫煙さえできれば、吸い殻を灰皿に捨てることに面倒はないため、結果として新宿駅東口喫煙所周辺は吸い殻のポイ捨てが少ない傾向となる。もちろん、高田馬場駅前ロータリー広場にそうした構造的な問題があったからといって、条例違反者を擁護する理由にはならないが、空間が心理的に与える影響についても考慮していかなければならないのもまた事実だ。問題解決のために求められる のは現実を正しく見る目と客観性であり、必ずしも道徳的主観だけではない。このことはゴミ問題に限った話ではなく、例えば優先席の必要性についても考える際にも同じことが言える。優先席は必要か、必要でないかついて議論する際、後者の意見としては優先席という仕組みがなくとも、優先されるべき人に対して個人が思いやりを持って接することのできる社会を構築すべきだという主張がなされるだろう。人道的観点からすれば以上の主張はその通りであり、非の打ち所がない。けれど実際の社会においてはそのような親切心を持った人々だけがいるわけではない。解決策を考える際には、そういった現実の状況を踏まえてどのように対策を取るべきかを考慮しなくてはならないのだ。この一年は道徳的追求の一歩先を捉える勇気とそのための客観性を得るための期間としても僕にとって重要な意味を持つものだった。

ではロータリー広場内での路上喫煙や吸い殻のポイ捨てに対する策はあるのかというと、ない。そもそも誰もが納得する完璧な施策があるのであれば、既に実行されていることだろう。無責任な案であれば、喫煙スペース以外の広場の床一体を芝生にして利用者が捨てにくい雰囲気を作るなど、実験程度でも実施してみたい考えがないわけではないが、同時に懸念される問題は火を見るよりも明らかである。これについては今後も考えを及ばせながら活動していなければならない。路上喫煙、吸い殻のポイ捨てについてここまでに止め、最後にその他のポイ捨てに対する施策を一つ提案しておこう。

二〇二〇年一〇月、渋谷区表参道にSmaGO(SmartActionontheGO)(以下スマゴ)というゴミ箱が設置された。スマゴは株式会社フォーステックによって開発されたIoTスマートリサイクルボックスであり、主な性能として、ソーラーで発電し蓄電(エネルギーの自給自足)、ゴミの自動圧縮、通信機能による堆積量の管理(回収コストの削減)といった機能を有する。またゴミ箱の表面を広告メディアとして提供することが可能であり、先程の表参道エリアは森永製菓が協賛しているため、キョロちゃんが描かれた広告で馴染みがあるという方も多いかもしれない。今や世界五〇ヵ国以上の自治体や大学へ導入されており、国内でも表参道への設置を皮切りに徐々にその数を増やしている。ロータリーの会は初期の頃よりこのスマゴの存在は把握しており、広場への設置の可能性を探ってきた。しかし、設置についてはいくつかの問題も存在する。一つは許可や管理といった、行政の問題。それらは税金で広場内のゴミを処理することの是非や設置のための道路側の許可など多岐にわたる。そもそも新宿区は渋谷区とは運営がまったく異なり、ゴミ箱設置に対するハードルの高さも異なるため、スマゴ設置については表参道の場合とはまた違ったビジネスモデルを構築する必要があるし、日本全体の傾向として地下鉄サリン事件以降、テロ対策としてゴミ箱の設置台数を少なくしているという実情もある。そうした数ある行政上の問題に加えて、検討しなくてはならないのが、ロータリーの会の理念との擦り合わせだ。散々述べてきたように、ロータリーの会は人々の意識を変えることを目的として活動してきた。ゴミ箱を置いて広場の状況が改善したとして、それは僕たちが望んだ結果だということができるのかという問題については会内でも意見が分かれるところである。一年前の自分を振り返っても、人の意識を変えることに会の魅力と意味を感じていた僕にとってスマゴの設置は完全に賛同できるものではなかった。今現在は路上喫煙の構造的要因として述べたのと同じく、ゴミ箱がないという環境についての責任を、客観性をもって見ることが以前よりできるようになったことで、様々な可能性の中からスマゴの設置に向けて最善の方法を考えたいと思うようになった。広場への設置ができれば、それをモデルケースとして新宿区内で他に必要とされている場所へスマゴを置くことにも近づくだろう。一方で、ゴミ箱を設置したからといって、完全にごみ問題が解決するかというと、決してそんなことはない。その点も留意しておかなければならない。タバコはもちろん、それ以外のゴミについても、すべてがスマゴへ適切に捨てられるようになるわけではない、それは普段のロータリー広場の様子を見ていればわかる。この案はまだ各方面への提案段階であり、実施へは時間を要するであろうが、スマゴの設置=ロータリーの会の終幕になることはない。一見、解決策として申し分ないように思えるスマゴについては、そういった将来への責任も意識しながら設置を推し進めていく必要がある。

ここまで、高田馬場の街が抱える問題について、ロータリー広場を中心に、自身の所属するロータリーの会の歩みと共に述べてきた。昨年の続きを淡々と描いているようで、そうした中にもこの一年間での変化がはっきりと表れているのではないだろうか。自身については特に、ひたすらに自己と向き合ってきた昨年に比べて、今回は自己との対峙に加えて、より「外」へと意識が移ったように思う。立場や経験、色々な要素が自己に影響を与えたのだろう。そうした変化が視覚的に見られただけでも、今回、この作品を書く意義とすることができた。

ロータリーの会については、今後廃会まで、どのようなストーリーを描くかが重要になる。目的上、長々と存続し続けるべきだとも思わない。ただ現状、存続に必死で終わりを意識する余裕などないというのもまた事実である。一抹の不安を覚える後継に対して、僕がいるうちに果たせる責任はなにか。それは偏に僕の姿を見せることであるだろう。会の創設者が僕たちに対してそうしてきたように。前回の作品も含め、この文章もいつかその一助となれば幸いである。

参考文献
高田馬場駅前ロータリー広場が初の完全閉鎖 「星野源、ガッキーの結婚より浸る」の声も - 高田馬場経済新聞 (keizai.biz)

高田馬場駅前ロータリー広場が197日ぶりに開放へ 「利用方法やマナー見直しを」 - 高田馬場経済新聞 (keizai.biz)

株式会社 FORCETEC[フォーステック]-スマートゴミ箱”SmaGO[スマゴ]”展開

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