ものさしは人それぞれ

わたしは、「思考傾向、価値観、美意識、常識、経験則」などをまとめて、「ものさし」と呼ぶことがあります。

そして「ものさし」は、人それぞれに違う、と、思います。それぞれ違っているけれど、それでいいと思うのです。

例えば、わたしが過去の経験から、「こうしてわたしは大鬱発作を脱することができた」という経験則をもっているとします。(一応持っていますが)

でも、その経験則は、わたしとは違う人生を歩んできて、育ち方も、触れてきたものも、環境も、性格も違う「誰か」の助けになるとは、思えないのです。

勿論全くヒントにならないとは思いません。が、ヒント以上にはならないと思います。

だからわたしは、自分の「ものさし」で、他の人をはかるのをやめました。わたしの「ものさし」をおしつけるのも、やめました。

よく、「病気の当事者同士なら理解しあえるだろう」と言われますが、辛さも人それぞれなら、触れてはならない「地雷」も人それぞれだと思うのです。

それは、こころを病んでいない人にも、言えるのではないかと思います。「わたしはこうしてこの危機を乗り切った、だからあなたにも出来るはずだ」とか、「わたしはこう思う、だからあなたもこう思うべきだ」という、「ものさしの押し付け」をする人の多さに気づいて、驚くほどです。

ものさしは、人それぞれ、違っていて、いいと思います。それこそ「みんな違って、みんないい」です。でも「人に押し付けるのはよくないなあ」とわたしは思うのです。

「わたしがこう思うから、あなたもこう思って!」って、何か変です。「わたしの期待どおりに考えて動いて!」っていう意味に思えてしまいます。

人によって違う「ものさし」に触れることは、とても勉強になります。でも、押し付け合うのは、ちょっと違うと思います。また、考えや意見を交わすのに、どうして相手を「論破」したがる人が多いのか、わたしには、それもよくわからないです。

そういうかたは、自分の「ものさし」がいかに正しいかを、意地になってまで証明したいのでしょうか。そうしないと「自分」が揺らいでしまうんでしょうか。わたしには、本当に理解できません。

勿論、わたしの「ものさし」だって、いびつでしょう。正しいと呼べる部分もあれば、そうでない部分もあると思います。「ものさし」って、そういうものだと思うのです。

比べない。はからない。おしつけない。相手には相手の「ものさし」があることを尊重する。いいなと思ったことは、自分の「ものさし」にもどんどん取り入れる。あれって思ったときは、自分の「ものさし」をよく見直してみる。

人道的に許せない例外とかはありますが、基本的には、それが「人を大切にすること」であり、ひいては「自分を大事にすること」なのかなあ、と、最近はぼんやりそんなふうに考えています。

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