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AロマンスAセクシャル、配偶者アリ。

幼稚園の頃から、自分が女性だと思えませんでした。
「どうして胸を隠さなくちゃいけないの?」
庭のプールで遊ぶときに、兄は胸がむき出しなのに、わたしは水着着用。
不思議だなあ、と思った記憶があります。
そして、いつか自分は女性になるんだ、と夢見ていたことがあります。
そのまま共学の小学校に行って、……やっぱり、性別は意識にのぼらず。
男子とも女子とも認識なく、相手を「人間」と思って接していた気がします。

思春期は、来ませんでした。体だけ女性に近づいていくけれど、中高一貫の女子校に通ったのもあってか、わたしは「中性」のままでした。
今でいう「XジェンダーF寄り」というところでしょうか。
女性用下着店に行けなくて、ブラジャーが買えなかった記憶です。
何となく、自分とは違う人のためのもの、という意識がありました。
そのまま大学までノーブラで通してしまう自分でした。
勿論、注意してくれた女性の友人はいます。しかし、わたしには、必要性が理解できませんでした。
自分が他者からは「女性」に見えるとか、「女性として」見られるとか、全く想像もしなかったのです。

危機感の薄いわたしは、大学で性被害にあいました。そして、「一度でも関係を持ったら相手に嫁がねばならない」という教育を幼少時に受けていました。わたしは心を閉ざして人形になりました。せめて相手を好きになろうとしても、全然なれませんでした。自分を女性と認められない上に、恋愛感情も性欲も欠落していたのです。それでも、相手に尽くそうと努力しました。私物を売られたりお金を取り上げられたり、貯めた家賃の人質にもされました。それでもわたしは、その人に嫁がねばならないと思い込み、逃げることもしなかったんです。

そのまま5年ほど経ったころ、精神的に不安定になって、今の相方に全てを打ち明けました。そして、相方の意見を聞き、今の人から逃げよう、と思いました。
ちょうど人間関係をこじらせてしまい、大鬱発作を起こしてしまったわたしを、相方は精神科に連れて行ってくれました。そこでは、白衣の人がぞろぞろと十人以上も診察室に入ってきて、椅子のわたしを取り囲みました。わたしは俯き、何も言えないまま、診察時間が終わりました。先生は「通院の必要はあるが、本人に責任能力が無いので治療できない。保護者を連れてきてください」と仰いました。

うちの父は、成人喘息すら病気と認めず、「怠け病」と切り捨てる人でした。当然のように「お前がキチ〇イであるわけがない」と一蹴されました。そして相方が「籍を入れよう。そうしたら僕が君の保護者になれるから」と言ってくれました。成人喘息がひどく、健康診断で落とされて、就職もできずにフリーターをしていたわたしが、結婚という形の就職をすることには、父は反対しませんでした。わたしは、相方に救われたと思いました。相方に何かあったら、恩返しに看病をしようと、そう心に誓って、婚姻届けに判を押しました。

そして今、ノーマルの男性である相方と、AロマAセクであるわたしとは、夫婦としての生活面で埋められない溝を感じながらも、何とか続いています。相方はその後、就職してから鬱になり、職を転々とし、遂にドロップアウトしました。相方はアスペルガースペクトラムで、社会に馴染みにくい性質なのです。でも今、一緒に家事をして、一緒に暮らしていることは、わたしにはとても幸せなことです。もう天国に行ってしまった父になら怒鳴られていたであろう失敗も、ほんわりと許してくれる相方がとても大切で、人間的にも尊敬しています。辛い鬱状態も乗り越えてきて、まだ本人は自殺祈念から脱出できていないけれど、何とか彼を支えていけたらと思っています。

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