鶴屋の水車

誰かのお話、「聞いて」いますか?

会話、というのは、「話して」「聞く」から成り立っています。
皆さんは、誰かと会話をしている時に、ちゃんと「聞いて」いますか?
わたしの所感ですが、ちゃんと「聞いて」いる人が少ない気がします。

例えば、「この間こんなことがあったのよ」と親しい誰かに話を振ったとします。どんな反応が返ってきますか?
「そうなのね。そんなことがあったのね」と返してくれる人は、なかなかいない気がします。「あら。わたしなんてこんなことがあったのよ」と、突然自分話に持ち込もうとされるかたが増えたように感じます。
最初に言いかけた話は、途中でも飲み込まざるを得なくて、「ああ、うん」と相手の話に相槌を打つばかり。最後にはうんざりしてしまって、話したかったことを引っ込めてしまう、なんて経験、ありませんか?

わたしの場合は、頻繁です。まず、聞いて貰えることが、少ないです。

「あなたなんてまだいいじゃない、わたしなんか~」と遮られて本題に入れず、結果、会話が、話しかけた相手主導で進み、わたしは「そうなんですね」と合いの手を入れるばかりで、会話が終わってしまう――そんな経験を繰り返し、いつの間にか、わたしからは「何も話さない人」になっていました。

「あ、話したいな」「愚痴を聞いて欲しいな」と思うことがあっても、まず、聞いて貰えないのでは、話そのものが出来ません。そして、相手がしっかりと聞いてくれて、話を受け止めてくれて、初めて、そこに「共感」や「受容」が生まれます。それこそが、「愚痴」などで吐き出した「ストレス」のお薬になるのです。
「あなたは今、こんなことで辛いのね」「それはしんどいね」「よく耐えて頑張ってきたね」と、疲れた「自分」、辛い「自分」を認めてもらえると、それだけで少し心が落ち着きますし、自己肯定感が多少なりとも得られるのではないでしょうか。

そのためには、まず、「聞いて」もらわなければなりません。他人を変えるのは大変ですから、自分から人の話を「聞く」ようにするのが良いと思います。そして、時々、「いつもわたしが聞いているから、今日はわたしの話を最後まで聞いて」とお願いしてみては如何でしょうか。途中で口を挟まれたら、「まだわたしのお話、終わっていないよ」と一言、牽制したら良いのです。「お願い、今日だけは最後まで聞いて」と繰り返す必要は出てくるかもしれません。「聞く」ことが身についていない相手の場合、隙を見つけては自分話に持っていこうとするので、そういう習慣の人は避けた方がいいかも知れません。「人の話を聞く」というのは、案外、難しいものなのです。

でも、誰もが必要としている、「共感」「受容」「承認要求」「自己肯定感」は、話をしっかり聞いて貰うことの先にあるのではないかと、わたしは思うのです。「聞いて」欲しいなら、自分も人の話を「聞き」ましょう、ということです。それが出来ない場合、自分に余裕がない、という可能性があります。しっかり眠っていますか? 栄養はとれていますか? 一人の時間は作れていますか? いざという時に依存できる相手は沢山いますか?
もしも余裕がないとわかったら、「聞く側」ではなく「話す側」になって、心のコップぎりぎりにたまった水を、誰かに抜いてもらうべきです。そして、自分に余裕が出来たら、誰かの心の水抜きをお手伝いできたらいいな、と、そうわたしは思うのです。
理想論かもしれませんが、お互いに、助け合えたらいいなと思うのです。

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