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わたしには、子供は、いらない。

「わたしは子供が嫌いだ」という内容の歌がありますが、わたし自身、小さい頃から子供は嫌いでした。耳が高周波に弱く、子供の甲高い声が苦手だったこともあり、また、両親双方のイトコ関連で一番下(のちに十四歳離れたイトコ他が出来ますが)だったため、年下の面倒を見たことが無いのもあるでしょう。更に言うと、友人が乏しく、小さい頃からコミュ障だったのもあるかもしれません。幼稚園、小学校と、わたしは一人でした。先生などに無理やり外に出されると、遊具(主にジャングルジム等)で暇をつぶしていました。どういう意味のある躾かは分かりませんが、当時の養母(伯母)と実父とが、「人付き合い禁止」をわたしに課したため、放課後に約束をしても断らされました。(因みに「人付き合い禁止」令は、ずっと続きます)

まあ、当然、クラスの友人たちからは無視されたりしました。わたしは自分の中に引きこもっていたので、ほぼ苦には感じませんでした。寧ろわたしから無視し返す勢いでした。少ないながらも相手をしてくれる友人はいましたし、わたしは相手の性別を気にしない性質なので、誰とでも遊びました。小学校も高学年になると色々噂が立ちますが、感覚的にわからないので放っておきました。そのうち中学受験で、小学校の同窓とはまあ、例外を除けば、疎遠になりました。

中学からは「人付き合い禁止」に加えて「部活禁止」が入ったので(実父の考えによると、朝練夜練で人気の少ない時間帯の通学は危険だから、だそうで)、やりたいことも出来ずに帰宅部をしていました。高校受験がなかったので(中高一貫)、部活に入れた人はかなりやり込めたと思います。羨ましいです。そして、先輩後輩の関係を知ることもなく、人との関りを持つことも許されず、六年を過ごします。

女子校に通っているうちに、どんどん、周囲から浮いていくのが分かりました。わたしは中性なのです。自然と、ボーイッシュな娘にはエスコートされ、ガーリーな娘にはエスコートをしていました。高校卒業を控えた頃、先生に「あなたは変わらないわね。変声期前の少年のままね」と言われたのが一番印象に残っています。「わたしは女性には、なれなかった」んです。そして人付き合いも最小限で、コミュ障。学ぶべきことをちゃんと学べずに大学へと進むわけですが……。

ここで、天国の実父の話を挟ませていただきます。実父はいつも不機嫌に見えました。遺影を探す時にも、「笑顔の写真が無い」と家族で苦労したものです。そして、わたしには兄がいるのですが、幼いわたしの目の前で、具体的には夕飯の時間に、実父は何かと兄にあれこれ怒鳴るのです。

父「ごめんなさいはどうした!」
兄「……ごめんなさい」
父「(兄をビンタして)何がごめんなさいだ! ふざけるな!……」(エンドレス)

実父がヒートアップすると、こんな光景が目の前で、毎日延々と繰り広げられるのです。実母がとりなすと更にひどくなるので、実母は黙っていたようです。兄は強い人に育ちましたが、わたしは逆に、実父に怯えて生きていました。期待にそぐうイイコであろうとしました。でないと矛先がわたしに向けられると思ったのです。言うことを聞かないと殺されるのではと思っていた時期もあります。幼い頃、兄が怒鳴られない日を願って、日記に記録していたこともあります。一日も空くこと無く、何年も何年も兄は怒鳴られ続けていました。それを目の前で見せつけられる、この恐怖がお分かりいただけるでしょうか。

更に実父は過保護・過干渉の典型でした。私立の小学校に行った兄がちゃんと通学しているか、学校まで尾行するなんて当たり前でした。兄もわたしも恐らく実父なりに「大事に」育てられたのでしょう。「大事だから」束縛され、「健康ではつらつとしていて欲しいから」病気(喘息等)があることを認めない、怠け病と言い切って否定する、辛くて病院に行くと、担当医の学歴まで調べ上げて難癖をつける、等々……覚えきれないくらい色々ありました。

実母は出来た人ですが、当時は、仕事が忙しく、わたし達のこと等は余り目に入っていなかったようです。

ここまで長々と成育歴を書きましたが、さて、こんなわたしが、子供に対してどんな態度をとれるようになったと思いますか? わたしは実父のようになるのが怖かったです。そんなわたしに、実父は言うのです。
「教職免許をとれ」。

無理です!

勉強は頑張った、苦しみながら優等生のふりを続けた、怖いからイイコでいた。でも、肝心の、人とのかかわり方を、全く知らないまま、わたしは大学受験を迎えたのです。実父の行かせたい有名校には白紙提出でささやかに抵抗し、自分が学びたかったことを教えてくれる学校に合格しました。
実父は、合格を祝ってはくれませんでした。望んだ学校では無かったので。

大学でのことは、ひとつ前のコラムを御覧下さい。わたしは実父から逃げたかったのでしょう。無理な門限を設定し、サークル活動も認めない実父にわたしは反抗しました。二十歳になってから実家を出て一人暮らしも経験しました。成人喘息の発症と重なり、実父に「俺の言うことを聞かないから病気になるんだ」と嫌味を言われました。実父はわざわざ、わたしの暮らすアパートを見に来たのです。この頃には、実父は志望業界へ就職した兄を見直しており、仲良くなっていました。反抗したわたしに矛先が向いたのです。

わたしは就職できませんでした。健康診断で落ちるか、面接で落ちるのです。コミュ障の上に人間関係の勉強の機会が無かったのです。ある会社では社長さんに「君をとる会社は何処にもないよ」とさえ、言われました。実父はわたしを責め続けました。相方との結婚が決まるまで、ずっと。

幸い、というか、わたしは体のほうにも問題がありました。それを理由に、「子供は産めない」と言って回りました。実両親にも、婚族にも。
先に言ってしまった者勝ち、という訳でもないでしょうが、わたしは自分自身が子供を愛せない身であることを知っています。愛するってどういうことかわからないのです。過保護・過干渉の連鎖から抜けたい、だから選択しました。
わたしには、子供はイラナイ、と。

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