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好酸球性副鼻腔炎のこと①
今年(2024年)の10月より
デュピクセント皮下注射を使用した治療を始めている下一段きっくです。
この治療を始めるにあたった経緯をもう少し掘り下げようと
私の体験談と治療経過をまとめることにしました。
デュピクセント治療のことは№を入れて綴っていこうかなと思ってます。
とても長くなってしまったので全部読まなくて良いと思います。
下のいずれかのお話がひとつでも
どなたかの参考になったり共感を生んだりすれば嬉しいです。
発症 (アスピリン喘息)
私の場合、アスピリン喘息になったのが最初のはじまりでした。
ちょうど30歳になるかならないの頃、
仕事が激務でロクに眠らず休まずを2年間くらい続けていた時でした。
生理痛がひどかったのでその日もいつものように鎮痛剤を服用して
会社に出社したところ、声が出せなくなって息もできなくなって
救急搬送されました。
アナフィラキシーショックでした。
病院で様々な検査を受けながらも、頭の中は仕事の事でいっぱい。
早く会社に戻って指示出ししなければ…
あの人にもこの人にも伝えないといけない、捌かなければいけない
そんな風に業務のことばかり考えていました。
当時はまだガラケー時代でLINEもなければ、
業務で使用するメールツールもPCのみで、連絡手段と言えば
電話が主だったんですよね…。
結局その日、アナフィラキシーの状態がある程度落ち着くと、
すっかり元気になった気がして私はそのまま会社に戻り
いつも通り残業もして帰りました。
完全に社畜でした。
その日は何とか危機を乗り越えたように見えましたが、
身体は完全に壊れていました。
同じように仕事をしようとしても体がついていかない、
朝方と夕方にひどい咳が出るようになり、
そのうち夜もずっと気管がぜーぜーして眠れなくなりました。
この時ようやく自分が重度の喘息になっている事に気が付きました。
夜は横になって眠ることができず、
朝に病院に駆け込んで点滴を受けてから出社。
それを繰り返していましたが、次第にそれもできなくなり、
当時の上司からは「まともに働けないやつはいらない」とばかりに
切り捨てられました。
何をもって「まとも」と言うのか。。
当時はブラック企業なんていう言葉もなくて、
超過業務ができない=まともに働けない
というレッテルが簡単に貼られる会社であり時代でした。
そこでようやく私はしっかりこの喘息とアレルギー症状に向き合うことになるのですが、当時の私のIgEの値は基準値の10倍くらいになっていて、
もうまともに働けなくなるのかもしれない
と絶望するくらい落ち込みました。
慢性じんましんになる
それと同時にからだ中がかゆくなる慢性じんましんも発症しました。
先ほど10倍…と適当に書いてしまいましたが、
IgEの標準値が170と言われる中、私の値は3000以上もありました。
もうからだ中が炎症を起こしていたような状態だったんだと思います。
この時から抗アレルギー剤を毎日服用する日々が始まりました。
それは今も続いています。
かゆみがこんなにも人の精神を追い詰めるのか、、と
この時初めて知りました。
アトピーの方のご苦労がようやく分かった気がしました。
でも私の場合は湿疹やただれが出るものではなく、
単純にかゆみだけだったので、とにかく掻かず薬をしっかり服用して
かゆみそのものを封じることができたのが幸いでした。
それでも大きなストレスを抱えたり、からだに無理をさせると
全身つながったような大きなじんましんが出て、
寝込む事態も体験しました。
舌や口の中、おそらく気道や食道の方までじんましんが出ていて、
呑み込みがしづらかった記憶があります。
この時は塞がってしまって息ができなくなったらどうしよう…と
とても恐怖したのを覚えています。
喘息の治療
とにかく喘息症状がひどかったので、
ピークフローを安定させるよう医師に言われ治療に努めました。
ピークフローは力いっぱい息をはき出したときの息の速さの事を言うのですが、私はこの値が正常値に満たず、とても低くなっていました。
ピークフローは自分の喘息状態を可視化できるので、
1日朝夕、2回ほど測って記録をつけては自分の体調の目安としていました。
中々、数値が上がらなくて「ほんとうに治るんだろうか…」と
不安な日々を過ごしていた頃もありましたが、
次第に数値が正常に戻ってくるのを感じた時はとても嬉しかったです。
症状を発症した頃は、ちょっとした刺激や体調不良で発作を起こしていたので、その度に病院に駆け込んで点滴を受けたりしていましたが、
その後、吸入や飲み薬でコントロールできるようになり、
半年ほどで予防薬に切り替えることができるようになりました。
喘息発作を抑える薬は気管支を拡張する作用があるんですが、
同時に心臓にも負担が掛かって、バクバク、ドキドキが続くので
吸入を吸ってもあまり落ち着くことができず、
不安を掻き立てられてとても嫌な時間を過ごしたことを思い出します。
この嫌な時間を過ごさないためにもとにかく発作を出さない!
と心に決めて、体調管理と改善を心がけました。
アスピリン喘息は治らず
喘息症状は治療によりどんどん良くなっていきました。
でも、やっぱり鎮痛剤を飲むと気管支収縮が起こるのは変わらずで
私は「なんとなくやめておいた方がいいのかも?」くらいの
自己判断で鎮痛剤の服用をやめていました。
喘息治療してくれた先生は何故かこの診断をしてくれなかったんですよね。
(田舎の小さな医院だったし先生も高齢だったしなぁ…ゴニョゴニョ)
私も一患者であり知識もなかったので、
今の治療がうまくいけばこの症状もいつか治るだろうと勝手に思っていました。
当時、30代で若かったせいもあるんだと思います。
自分の不調に向き合うよりまだまだ目を向けていたい仕事やプライベートのことの方が大事だった時期だったんですよね。
体調悪くてもその分体力と気力でまだまだカバーできていた頃でした。
でもある日、風邪をひいて市販薬を飲んだ時
またアナフィラキシーショックを起こしました。
風邪薬に鎮痛成分が入っている事を知らなかったためでした。
ここでようやく鼻の異常も感じ始めます。
鼻詰まりがよく続くようになり、においや味が分かりにくくなっていました。
耳鼻科受診で病名(好酸球性副鼻腔炎)判明
最初のアナフィラキシーショックで喘息になってから
1~2年は経っていたと思います。
もうかれこれ私の中では20年くらい前の話なので
1、2年の単位がかなりあやふやですが、初めて行った耳鼻科の先生が
とても丁寧に教えてくれたのを今でも覚えています。
その先生には今でもお世話になっていて、
私が大学病院で手術を受けたり、このデュピクセント治療を始めるきっかけを作ってくれたのもこの耳鼻科の先生になります。
風邪症状の悪化で鼻詰まりと嗅覚と味覚がないことを言うと
最初は内科でも出されるような風邪薬と
喉の痛みを取るための鎮痛剤を出してくれたんですが、
鎮痛剤を服用すると喘息症状が悪化するので出さないで欲しいと
伝えると「思い当たるところはありませんか?」と
1枚の用紙を渡されました。
そこには「アスピリン喘息とは」と見出しが書かれた
本か雑誌をコピーした記事で、私がまさに悩まされている症状が
記されていました。
「私の病気はこれだったんだ」
ようやく納得のいった瞬間でした。
でも実はそこからが始まりでした。
アスピリン喘息は多く割合で好酸球性の炎症を併発すると言われていて、
おそらくその始まりでしょう…と告げられました。
そこから好酸球性副鼻腔炎なんだろう、という思いの下、
耳鼻科通いが始まりました。
先生も町医者としてできる限りの事はしてくださったのですが、
無情にも私の鼻茸はどんどん育っていくし、
においも味も消えていく窮状は進行するばかりでした。
通い始めて数か月が経ったころだったと思います。
「一旦、対処的な治療はやめて手術を受ける方向を考えてみませんか?」
と先生に提案されました。
この時はステロイド治療を主に行っていたんですが、
おそらく先生の中で長期に渡ってステロイドを処方することに
抵抗があったんだと思います。
私自身、母が緑内障を発症していたし、目に副作用が起こることに
恐怖を感じていたので対処療法ではなく、少しでも根治に近づける治療に
積極的になりたい気持ちも出てきていました。
そこで隣県の大学病院受診の紹介状を書いてもらうことになります。
紹介状で大学病院受診
このあたりから月日の記憶がはっきりしています。
おそらく日本に未曽有の災害があったのと、当時勤めていた会社が
倒産するという、結構な出来事があったせいだと思います。
そう手術を受けたのは2011年でした。
それより以前の2010年9月~12月のあいだ、大学病院通いが始まり
まずは紹介してもらった先生に、今の私の状態を知ってもらう
検査と問診が続きました。
閉所恐怖症者の拷問器と呼んでいるMRIやCT、
ニンニク注射を打って自分の内側からのにおいを感じるかどうかの
確認や、小さな小瓶の中身を一つずつ嗅いでいく嗅覚テストなどを受けたりしました。
それと好酸球の程度を呼気で調べるNO濃度測定検査も行いました。
この検査、けっこう長い間息を吐き出していないといけないのですが、
息が切れそうになると、液晶モニターに映し出された雲の形をしたキャラクターがピコピコした電子音と共に沈んでしまうので、それを保ってあげるためにすごく頑張って息を吐き続けていた記憶があります。
(この検査機にゲーム的な要素を取り入れた開発者の人の顔を
ちょっと見たくなった瞬間でした笑)
そして手術へ(内視鏡下副鼻腔手術)
お正月気分もそこそこの1月4日入院、翌日が手術日でした。
思えば付き添いやお見舞いに来てくれた家族も大変だったと思います。
手術は全身麻酔だったうえ、
鎮痛剤が使えない私にはモルヒネが術後は投与されました。
それもあって手術中の記憶もなく、術後の患部の痛みもほとんどありませんでしたが、鼻の奥の手術だったので、喉を伝って血が胃にたまり、
その不快感で何度も血を吐いてしまったのが結構辛かったです。
あとポリープの一部が眼球だったか視神経の方にまで行っていて、
予定の手術時間より2時間くらいオーバーして、家族を心配させたようでした。
それとどんな格好で手術受けたんだと思うくらい、後頭部を何かで何度も
打ち付けたような鈍い痛みがずっとあって、それも地味に痛くて嫌でした。
(執刀医の先生、頑張ってくれたんだよね…その証だよね?と言い聞かせてましたが)
そしてこの手術を経験した方、
もしくはこの手術を受けようとあれこれ調べてらっしゃる方は
きっとご存知だと思うんですけれど、術後、こんなに鼻に入るの?ってくらいガーゼをパンパンに詰め込まれます。
その大量のガーゼを手術から5日目くらいで抜いてもらう処置があるのですが、
これが死ぬほど痛いです。
麻酔を一応かけてもらえますけれど、私はほぼ効かなかったです。
比喩でもなんでもなくあまりに痛くて気を失いかけて
処置の先生に「今日はやめておきましょう」と言われるくらい。
いや、どうせまたやるんでしょう?
また今度なんかにしたらもう二度と怖くてできんわこんなん!!
と息を吹き返して「一気にやってください!!」とお願いしました。
その後あまりに痛くて、戻った入院棟のベッドでしくしく泣いたのは
今になっては笑える思い出ですが、
またあの手術をやれって言われたらやっぱりイヤかも、、
手術後の嗅覚回復
これは見事に回復しました。
それはそうですよね。
嗅覚のフタになっていたフタを取り除いたんですから。
2週間ほどの入院期間中、術後にカレーが病院食で出たのですが、
このカレーのにおいと味が分かった時は涙がちょっと滲みました。
カレーの味は微妙だったけれど、素直にとても嬉しかったことを覚えています。
ただ発症してから数年まともににおいと味を感じていなかったので、
世の中はこんなにもニオイに満ちているのか、というのと
食べ物はこんなにもマズイのか、というのを感じる数か月を過ごしました。
そういう意味ではにおいと味が無い世界、
無いとまでは言わないけれど、ぼんやりしたままの世界にいるのも
ある意味幸せなのかもしれないと思いました。
嗅覚バリバリあった頃の私はにおいに敏感で、嫌なにおいをかぎ続けると
頭痛がしたり吐き気を催したりしてしまうので、
それが復活したときはさすがにゲンナリしました。
なのになぜ手術を?と言われるかもしれませんが、
やっぱり味覚ですかね、、
食べる物の美味しさや味の深みをちゃんと分かりたい、
料理するときの妨げになって欲しくない、というのが一番かもしれません。
それにふつうに美味しいお店に行って
美味しい物を美味しいと味わいながら食べたかったんです。
その後
数年後に再発→そして再受診→指定難病申請→デュピクセント治療へ
となるのですがその間だけで10年くらいあり、また長くなりそうなので、
次回に続けたいと思います。
ここまで読んで下さった方ありがとうございます。
最後まで書ききれていなくてすみません。
同じ病気を抱えていたり、似たような想いを抱えている方の
参考になれば幸いです。