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生きることとは表現すること
きのう、昨年からお話を聴いていただいているカウンセラーさんにお会いした。
私はうつ病などの精神疾患こそ罹っていないが、メンタルの不調を起因とする体調不良を起こしやすい。
繊細で過敏なところがあり、思い込みや白黒思考が強く、他責思考、他人軸など生きづらさに繋がる思考のオンパレードだった。
子どものころから自分の感情を抑えてきた。
母親は私の繊細さや過敏さを嫌っていたし否定もした。いつの間にか私も自分のそうした性質をダメなものだと思い込み、親の顔色をうかがい、やりたいこと欲しいものが言えなくなった。
湧き上がってきた感情を無意識にスルーしてしまう。
それをずっと積み重ねるうちにいつの間にか自分の感情を感じとれなくなり、本音迷子になっていた。
時代が変わったなぁと思う。
私が10代、20代のころはまだスマホが誕生する前で、パソコンも一般的ではなかったし、パソコンを持っても今のようにコンテンツ(当時はこんな言葉はなかったけど)も充実していない。
今は自分の内面を掘り下げる情報も手法もたくさんある。かえって情報が多すぎて振り回されるくらいだ。
まぁ、80年代の終わり頃から「自分探し」がブームになり、それに振り回された人たちがいたことを思えば、今も昔も変わらないけれど。
私は遅まきながら40代になってようやく自分の生き方に限界と危機感を感じた。ミッドライフクライシスというものかもしれない。
本を読んだり、ネットで検索したり、1人で自分の心と向き合ってきた。
他人にはなかなか話すことができず、ずっと苦しかったし、孤独だった。
カウンセリングやワークを受けるようになったのはここ2年くらいのことである。
お金さえ払えば利害関係のない人がどんな話も聴いてくれ、どんな私も受け入れ肯定してくれる。
いろんなタイプの複数のカウンセラーに会ううちに、強い思い込みに気づいたり、もやもやしていたものを言語化できたり、自分の心の解像度を上げたりと効果は出ている。
一方でそう簡単に変われるものではないなとも思う。
今のカウンセラーさんは今までで一番若い。初めて男性を選んだ。今まで同年代と思われる女性ばかり選んできたので新鮮な視点を教わることが多い。
話していると「え?そこ?!」という箇所から取っ掛かりを見つけてくる。
彼には仕事が長続きせず転職を繰り返していることについてずっと相談していた。今回は私が起業を考えているという話から、自分らしく働いている(私にはそう見える)人への嫉妬やモヤモヤする感情について話が及んでいった。
その中で私が発した「表現する」という言葉について彼はとても気にして私の深層心理に触れようとした。
結果的にきのうの限られた時間の中では、私の中で答えや落とし込めるものは見つけられなかったのだが、帰り道にふと思った。
絵画や文章、芸能、音楽、料理、スポーツ、踊り、建築物、乗り物、他にも有形・無形にかかわらず目や耳、さらにはお金という価値で受け取ることのできるもの全て、なにかしらの「表現」である。
だけど、そればかりではないのではないか?
日々の暮らしの中で、着るもの、ヘアスタイル、メイク、食べ物、インテリアなどは当然「表現」であると思う。
さらには健康のために無添加の調味料を選ぶこと、自分で無農薬野菜をつくることなど、歯磨きに時間をかけ定期的に歯科検診をすることも表現。
コンビニで必ず新商品を買うこと、空き箱やショッパーが捨てられないことも、奥さんに嫌味を言われてもタバコをやめられないことも、成田で飛行機を見ることにハマっていることも、自分で選択したことは全て「表現」なのではないか?
ふと、そんなふうに思ったのだ。
生きることそのものが表現なのかもしれない。
意識しようとしまいと。
そんな時偶然こんなポストを見た。
(いつも、いつも、いつも、繰り返し思うけど、生きることがそのまま、なんらかの抵抗であるように生きていたい)
— 日本の古本屋【なかなか使える古本通販サイト】 (@koshojp) February 4, 2025
あーっっ!これよ、これ!!と思った。
この方の場合、抵抗という選択だし、人によっては愛かもしれない、善かもしれない、悪意かもしれない。学びという人もいれば、遊びという人もいるかもしれない。
「表現」を型にはめ、狭い意味に押し込んでいたのは私だった。彼は私の思い込み、そして私は何をしても表現することができていないと決めつけたネガティブな感情に気づいていたのだろう。
だからこのことについて問いを重ねたのだ。
働き方だって私が選択したものは私を表現できる。
そう考えると視点を変えられそうな気持に変わってきている。
他人へのモヤモヤや嫉妬への深掘りはまだこれからだけど、今回得た視点が糸口のひとつになりそうである。
選択すること自体をもっと楽しめたら、もっと人生を楽しめるのかもしれない。