遺書[人生の転機編](著者:大学4年男)
弱冠21歳にしてこれを書くことになるとは、元気に部活に励んでいたあの頃からは想像がつきません。生前に自分の想いを残しておくことは大切だと思い、執筆を決意しました。
大学3年生のある授業を境に私の人生は"一変"しました。
「当たり前にできていたことができなくなる日々に絶望を繰り返す毎日でした。」という文章がくるのが遺書の冒頭としては定石でしょうか。そんな期待とは裏腹に、その頃の私はあまり絶望していませんでした。授業に出られなくなったことやご飯がなかなか食べられなくなった現状を何とか解決しようと必死で、落ち込むことは少なかったと振り返ります。
最初は消化器内科や耳鼻咽喉科、めまいの病院などに行ってみました。しかし、症状は治りそうにありませんでした。それどころか日を重ねるごとに身体のあちこちが不調になってしまいました。
そんな原因不明の症状とは何なのか、なぜ授業に出られなくなり、ご飯をあまり食べられなくなってしまったのかについてお話していきたいと思います。
春の陽気を感じ、大学内に新たな活気が色づいてきた5月頃。私は1年生の時から大学内の事務をお手伝いするアルバイトをしていました。私が所属していたのは学生生活課、いわゆる学生が困ったらまず頼りに来る窓口のようなところで働いていました。主な業務は、窓口に来た学生の対応、入学式やオリエンテーションなどで使う資料の封入などでした。このアルバイトも3年目に入り、自分なりの仕事の進め方が身についてきたところでした。この日も各高校に送る大学案内を封筒に入れ、のりづけの作業を慣れた手さばきでこなしていました。しかし、1時間が経ったあたりでしょうか。どことなく、目の焦点が合わなくなってきました。ずっとうつむきながら、のりをつけてもつけても封筒が出てくるトリックアートを見ているような感覚になってしまったのです。後に出てくる医者の先生に、「入ってくる情報が多すぎて脳がオーバーヒートしてしまった。」と言われる状態になってしまいました。何とかその日のシフトは昼前までだったので、やり切りました。しかし、食欲が全くなかったため、ご飯を食べずに3時限目の授業に出席しました。昼休みを挟んだ大学内は人がごった返しで脳がパンクしている私にとって、まさに泣きっ面に蜂でした。そんな状態で3限目の授業を聞いていたのですが、めまいはひどくなるばかり、しまいには気持ち悪くなってしまい、授業どころではなくなってしまったため、教室から退出してしまいました。1時間ほど休んで気持ち悪さ、めまいが少し落ち着いてきたところで家に帰りました。その日は倒れるように布団に入り、目が覚めたのは翌日でした。めまいや気持ち悪さはなくなったので、いつも通り大学に行き、授業に出席しました。数分後に私の身に起こっていた事の深刻さに気付くなんて思いもせずに。
授業を聞き、10分が経った頃でしょうか。急に前回の授業のイメージがフラッシュバックしてきてしまい、また気持ち悪くなってしまいました。鼓動が速くなり、それに気付いてもっと焦ってきてしまったため、途中で退出せざるを得ない状況になりました。
この時、私は全てを察しました。幸か不幸か私は大学で心理学を専攻しており、トラウマやパニック障害などの精神疾患になるまでの仕組みを学んでしまっていました。
アルバート坊やの実験というものを皆さんは知っているでしょうか。1歳になる前の赤ちゃんを対象とした実験です。赤ちゃんに白いネズミを見せた後、大きい音を鳴らします。これを繰り返すと、赤ちゃんは白いネズミを見ただけで恐怖反応を起こすようになってしまうのです。これを恐怖条件付けと言います。本来は怖くないものに恐怖を覚えてしまうのです。この理論に私の状況を当てはめると、授業に出ることによって気持ち悪くなってしまったのだと誤って学習してしまい、授業に出ることがトラウマになってしまったのです。たった1回でそんなことになるのかと思う人もいるかもしれません。私が思うに、気持ち悪くなってからも我慢して授業に出続けてしまったこと、事前に条件付けを知ってしまっていたこと、たった1回でも私にとっては忘れられないほどのインパクトを身体に植え付けられたことなど複数の要因によってトラウマが生まれたのだと考えています。
それ以降、頭ではそんな焦るような場面ではないと分かっていても、教室に閉じ込められて出られないという無意識のうちに作り出された感覚が私を強く襲い、気持ち悪くなってしまうようになりました。その不安は教室だけでなく、電車の中でも感じるようになり、気持ち悪さ以外にも焦りや恐怖を併せて感じるようになりました。このように今まで当たり前にできていたことに突如不安を感じるようになったことで、事の深刻さに気付き、治療しなければいけないと思いました。そこで、冒頭に書いたような、消化器内科や耳鼻咽喉科、めまいの病院などに行ってみました。しかし、どこに行っても「今ある症状に対して何となくそれっぽそうな薬出しておきます。」というくらいの対症療法で根本的な原因は分からず、特定の場面になると症状が再発してしまい、治りそうにありませんでした。
そこで、私は意を決して精神科に行くことを決意しました。心理学部に在籍し、心の不調は躊躇せず専門家に尋ねるべきだと教わっていましたし、私もそう思っていました。しかし、実際に尋ねるべき立場になってみると精神科への行きづらさがあり、できることなら身体的な病院で完治させたいと思っていました。私の中で、普通の病院というカテゴリーの中に精神科は含まれておらず、気軽に行けるような場所ではありませんでした。薄暗い雰囲気で一度通ってしまえば、もう通い続ける他ないという何となくのイメージがありました。しかし、このままでは卒業すらできなくなってしまうという危機感から、現状を変えるにはとりあえず精神科に行ってみるのも1つの策だと割り切りことができ、行くことができました。実際に行ってみると先生は優しく、薬も軽いものしか出されませんでした。その時、先生に「入ってくる情報が多すぎて脳がオーバーヒートしてしまい、自律神経がおかしくなってしまったのではないか。」と言われました。気分変調症にパニック障害が併発したのではないかと診断されました。食欲の減衰や疲労感、集中力の低下など、私の症状にかなり当てはまっており、ようやく納得のいく診断に巡り合えました。この病気は比較的軽度で、日常生活が明らかにできなくなってしまう、いわゆるうつ病とも違うため、周りの人に理解してもらいにくいです。そのため、人付き合いは特に苦労しました。遊びの約束をしても、直前になって不安になったり、何日も前から無意識に約束のプレッシャーを必要以上に感じてしまったりしてしまい、体調を崩してしまうことが多くなりました。相手からはただドタキャンした奴と思われて仕方なく、次第に人と会うことを避けるようになりました。大学の授業もオンラインでできるものを優先したり、対面の必修科目は先生に配慮いただきながら進めていました。おかげで薬を飲めば、対面でも少しずつ出られるようになってきました。卒業まで何とか道が見えてきたのが発症から半年後くらいたった時でしょうか。働けるかは分かりませんが、一応就活も進めて、ここで働けなかったら諦めがつくというほどの会社から内定をもらうことができました。
ここまで読むと、「一見、好転し始めているじゃないか。何で遺書なんか書くのか。」と疑問に思うかもしれません。授業に出られなくなり、この先どうすれば良いのか、路頭に迷っていた時期に書いていても不思議ではないかもしれません。しかし、できないことに直面し、悩んでいても「死んだ方が良いな。」と考えることはありませんでした。私がうつ病だったらそう考えていたかもしれませんが、比較的軽度でじっくり大変なタイプの精神疾患だったためそんなこと思いつきもしませんでした。
心の不調から現在に至るまで1年半ほど経ちましたが、この1年半の間に身体のあらゆるところが次々に不調になりました。頭から目、のど、首、手首、胃、足首といったようにさすがに心と関係ないだろうとツッコミたくなる場所まで不調になりました。何が原因かはよく分からないですが、今までそんな経験がなかったので、驚きました。どこも1か月くらいすれば治っていたのもあり、そこまで気にしてはいませんでした。しかし、目だけは今でも不調が続いているのです。今年の夏ごろから、パソコンやスマホなどを長時間(1時間ほど)見ていると目の奥が痛くなったり、焦点が合わなくなり、めまいでふらっとすることが多くなりました。最初は「今度の不調は目か!」というくらいでそのうち治るだろうと思っていました。しかし、11月になっても続いているのでさすがに眼科に行きました。
今回はここまでです。私の人生の最も大きな転換点についてお話ししました。まさかの遺書を書く理由までたどり着きませんでした。下書きはできていますので、次回は遺書を書くことを決めた理由などについてお話しできればと思っています。次回もお楽しみに。