遺書[他人との関わり方編](著者:大学4年男)
前回は遺書を書く理由などについてお話ししました。ちなみに現在の目の調子は、瞬きを多めにすることを気を付けると良くなる気がしてます。ついつい画面を見ていると瞬きが少なくなってしまうので、それが原因なのかもしれません。あと、外に出て散歩をしている時などにフラッとしやすいので寒さも影響しているのかもしれません。なんにせよ、少しずつ注意すべきポイントがつかめ、意識がなくなりそうにならなくなってきたので良かったです。皆さんも寒暖差に気を付けてくださいね。まだ、スマホなどを1時間くらい見続けると焦点が合わなくなってしまいますが対策できるので、許容範囲内です。
現状報告はここまでにして、本題に入っていきます。今回は22年近く生きた中で私なりに編み出された他人との関わり方、空白の1年半についてお話していきたいと思います。次のセクションは私の理想とする考え方であり、実践できているわけではないのでやさしい目線でサクッと見ていただければと思います。
"みんな違ってみんな良い"というのが私の考えとしてあります。1人1人が異なる環境で生まれ育ち、経験してきたことも違います。そのため、考え方が違うのはもちろんのことですし、なにより当たり前の基準が違うと思います。それはそうだと思われるかもしれませんが、「これは言ってよい」「言ったら相手を傷つける」「これはやるべきだ」「こういう人になるべきだ」「これはやってはいけない」など、日本にいると少しの違いはあれど何となくみんなが共有されたイメージを持っていると考えがちではないでしょうか。少なくとも私はそうであり、他の人を見て「社会的にそうしない方が良いだろう」と心の中で思ってしまうことがよくあります。しかし、この場合の社会的は何の根拠もない私が勝手に盲信しているルールであることが多いです。
私は、人が行動するのは絶対に何かしらの意味があるからだと考えています。現実的に全く意味を持たない行動は存在しないと考えているのです。いくら無意識でもそれは過去の経験に基づいていたり、積み重なった気持ちが表出したりとどの行動にもバックグラウンドがあると思います。意味もなく「あ」とつぶやいてみても意味のないことをしたいからという動機があります。意味のないことをしたくなるまでの過程が最終的に行動として出てくるのだと考えています。自論が暴走しており、理解できないかもしれませんが、そんな考えをする人もいるのかと優しく読んでもらえると嬉しいです。
つまり、他人がどんなに意味不明でこちらの癪に障ることをしていても、それは異なる当たり前やこれまでの積み重ねから導き出された行動であり、癪に障るかはこちら側の認知次第だと思います。当たり前が乖離しすぎるとつい気になってしまうのです。こう考えると他人に寛容になれる気がします。一方で、寛容になりすぎて自分がストレス溜まっちゃうと思う方が大半でしょう。私もそうです。相手の当たり前を尊重しつつ、程よい具合で思いやりを持って自分の主張も伝えるといった丁度良い塩梅でやっていくことが平和で上手い生き方と言えるのだと思います。しかし、それは非常に難しいです。特に、人と深くかかわらないことに何の違和感も感じず1年半も生活ができてしまった私にとってはなおさらです。しかし、この前提があることで思いやりに繋がると考えているので私は大切にしていきたいです。他人を自分の価値観の中に無理やり押し込むこんでしまうのは傲慢だと私は思ってしまいます。1人1人が自由に表現し、生きるべきだと思います。もちろん法の観点から限度はあると思いますが。そのため、私は基本的に何をされても人を責めません。相応の理由が隠れていると思ってしまい、それを考えようともしないまま自分の意見を押し付けるのは人間らしくないというか、せっかく考える頭を持って生まれたのにもったいない気がしてしまうのです。ですが、私だってファーストインプレッションからそう考えられるわけではなく、ムムッ!と思ってしまうことも全然あります。そこですぐに指摘したり、攻撃したりするのではなく、一旦冷静にこの考えに立ち返り建設的にやってこうと思うようにしています。
そんな理想を掲げている私ですが、ここ1年半以上、ほとんど他人と関わっていません。厳密には母親以外とはほとんど会話していません。そうなってしまった経緯についてお話ししたいと思います。
私がメンタルを崩した2023年5月は友人や大学の先生など様々な人に意見を聞きました。しかし、それを最後に人と積極的にかかわることは1年半ありません。
その理由は、色々な人にアドバイスや助けを求めても、ガラッと変わって元通りということにはならなかったからです。冷静に考えればそうなのですが、その頃の私は、これをすれば症状が治るという画期的な解決策があると思い込み、それを誰かに教えてほしかったのです。少しずつリハビリのステップを登っていく現実をどこかで認めたくなかったのかもしれません。そんな視野の狭まってしまった人間は、様々な人と相談を重ねるたびに現実を突きつけられます。現実を受け入れきれない私はどう考えたでしょうか。
視野が狭くなっていることもあり、自分のことを100%理解してくれないから相談しても所詮は他人事として処理されるだけで無駄だったのだという風に考えてしまったのです。当たり前ですが、自分のことを100%理解できる他人などいるはずがありません。幼い頃から同じ経験をして、同じ感覚を持った上でその状況を考えられる人など存在しないのですから。当時の私にとってはそんなことはどうでもよく、どうせ理解してくれる人はいないというレッテルを他人に貼ってしまい、頼らなくなってしまったのです。短絡的、盲目的だと今なら思います。何かに囚われると周りを見ようとしなくなってしまうのでしょう。今の私だって見えていないところはたくさんあります。しかし、見ようとはしているつもりです。あらゆる可能性を否定せず、色々な意見に対してとりあえずやってみようと考えるようにしています。そんな私ですが、あの頃の悩んでいる自分に声をかけるとしたらなんと声をかけられるでしょうか。恐らく何を言っても心に深く刺さり、救われたとは感じることはないと思います。
多くの人は悩んでいる人に対して、できることなら心に響くような言葉をかけてあげたいと思うのではないでしょうか。「あの有名人の言葉に救われました。」という言葉を聞くことがあります。心に響く言葉は「何を言うかではなく、誰が言うかが大事」ということもよく聞きます。ですが、私は少し違うのではないかと思っています。すごく努力し、多くの人から憧れられている人が良いことを言ったとして、みんながみんな心を動かされるわけでないはずです。つまり響く言葉とは、誰が聞いたかに依存するものだと私は考えています。「自殺したいんだよね」と言った人に対して、「絶対だめだよ」と言うのか、「何がつらいの?あなたの考えを聞かせて」と言うのか、「よくがんばった。お疲れ様」と言うのか、どれかが絶対的な正解だということはないと私は思います。相手によっては、「今まで否定され続けて嫌になったから選んだことなのにそれまで否定するの?」と感じたり、「お前にはこの気持ちはどうせ分からない」と思われたりするかもしれません。こっちは何とか止めたいと思っていて、もっと広い世界を見てからでも遅くないから死なないでくれと本心から願って言った言葉だとしても、皮肉だなんだと曲解されてしまうかもしれません。一方で、死なないでほしいという言葉を言ってほしいから伝えてきたのかもしれません。急に野球の話になってしまい恐縮ですが、インハイにストレートを要求しているキャッチャーに対して、アウトコースに流れていく変化球を投げてもキャッチャーは満足しません。ストレートをバチンと取りたいキャッチャーには全力のストレートを、ストレートはもううんざりと思っているキャッチャーには緩い球をというように受け手の要求次第だということです。話を戻しますが、悩んでいる人がどういう人生を歩み、どんなことに喜びを感じ、苦しさを感じてきたのか、どうして悩むことになったのか、今はどんな気持ちであるのかなどバックグラウンドから共有することが大切なのでないかと思います。悩んでいる人の心を開く、それは1つの言葉によるものではないと私は思います。それまで積み重ねてきた関係性がゆっくりと心をほぐしてきた結果、心に響くものがあるのだと思います。有名人の話もそうで、悩んでいる人にとってはとても尊敬できる人物であり、心を開いたから言葉に力が宿るのだと私は考えます。自分が響いた言葉を他人に紹介しても響かない理由はこういうことなのではないかと勝手に思っています。"言葉"と"出会ったときの自分の状況"がマッチして初めて意味が付加されるのだと思います。私が悩みを他人に話した時にあんまり理解できていなさそうだと思ったのは私と相手の向いている方向やベクトルの長さなどが乖離していることによるミスマッチだったのだと振り返ります。このミスマッチは決して誰のせいとかいうものではありません。これこそ俗にいう"運命"だと私は思います。ですが、運命を少しでも自分の力で手繰り寄せたいと思うならば、先述したように心を開ける関係を築くことだと私は思います。人間関係には相性というものが必ずあるので、一筋縄ではいかないと思いますが、歩み寄ろうとすることはできると思います。私も困っている人、苦しんでいる人だけに限らず、普段弱さを見せない人にも歩み寄り、心を開いてもらえる関係を作りたいと思っています。人との関りを絶った今だからこそ言えることですが、実際に行動するのは非常に難しいです。近くにいる人、よく話す人との会話で意識することが第一歩だと思います。相手の立場に立って考えようとし、思いやりの意識を持つことが大切だと私は思っています。他人を信じ、頼れるような、まさに信頼関係を作ることが私のように1人で抱え込まないためには大事なのではないかとこの1年半で感じました。少しずつですが、私も友人などを再び頼るようになりました。しかし、人に頼るというのは次のような問題も発生してしまうのです。
その問題とは、他人に協力を仰ぐということはそれなりの責任が伴うということです。1人で勝手にトライアンドエラーする分には結果がどうであれ、自分が納得できればそれでOKです。しかし、自分から友人や先生などを巻き込んだのにもかかわらず、良い結果が出ないと面目ないという気持ちになってしまいます。それがプレッシャーになって何としても上手くいかなければという気持ちがストレスに変わります。さらに、私の場合1年半ぶりくらいに頼ったため、みなさんとても真剣になって私の症状を治そうと考えてくれています。ちなみに、今の私が悩んでいる症状は電車に乗れないことです。今後どうしても電車やそれに類似する場面を避けられないことがあります。大学を同級生と同じタイミングで卒業するにあたって通らざるを得ない道です。頼った人たちは何とか解決しようとあの手この手でやってみようと提案してくれました。しかし、そんなにがんばれるエネルギーが私にあるとは思えず、予期せぬ大変なことになってしまったと相談してから思いました。自分から頼ってしまった手前、そそくさと問題から逃げることもできなくなってしまいました。
この悪循環によって他人に頼っても結局メンタル面の回復ができないじゃないかと思ってしまう現状であります。今の私の視野が狭くなっていることは重々承知ですが、今感じている気持ちを変えようとするのも大変です。表面上だけなら色々な意見も受け入れられますが、心から変われるかと言ったらそうではありません。
力を貸してくれる人たちとゆっくりと、最初は歩幅が合わないと思いますが、お互いに歩み寄ろうとすることで心から気持ちが変わっていくと思います。幸せなことに私の周りには一緒に歩いてくれる人がいます。今は、他人に頼ってもプレッシャーが増えるだけだと思っていますが、その考えが変わっていくことを身を持って証明できればと思っています。偉そうに語っておいて、まだ分からないことだらけですが、何か1つでも参考になればと思っています。
今回も長い文章にもかかわらず、最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。あなたが見てくれることがとても私の力になります。誰か1人でもいいねを押してくださる人がいると”書いてよかったなぁ”と本当に感じます。書くモチベーションをとても頂いています。これからも見てくださる方がそんな考えもあるのか、読んでよかったと思ってもらえるような文章を書いていきたいと思っています!
次回は、似ている話になってしまうのですがもっと根本的な私の人生観、何のために生きているのかについて私なりの考えをお話ししたいと思います。お楽しみに!