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短編小説「INFPの私。」
私という人間は、自分でも曖昧な輪郭しか持っていない。学生時代に受けた性格診断で「INFP」と出たとき、目の前に示された文字列が不思議な救済だった。内向的で、理想主義的で、豊かな内面世界を愛し、同時にその世界に自ら閉じこもりがちな人種。まさに私を表している気がした。
社会人になって数年、私は小さな編集プロダクションで文章校正の仕事をしている。華やかな雑誌社や派手な広告代理店に憧れたこともあるが、気づけば地味な裏方の職が性に合っていた。人混みの中で声を張り上げて交渉するよりも、静かなデスクで活字と向き合う方がずっと楽だ。仕事仲間には言わないが、校正中にはいつも頭の中で小さな物語が生まれている。活字を追う瞳の裏で、私は断片的なロマンスや詩的なイメージを紡いでいるのだ。
そんな私が少しだけ気にしている人がいる。営業部の橋本さん。背が高く、やや猫背で、黒縁の眼鏡が顔の半分を覆う。滑らかとは言えないけれど、静かで丁寧な話しぶりが印象的だ。華やかではないが、彼の目は柔らかな光を帯びている。廊下で資料を受け取るとき、彼の細い指先に触れた瞬間、私は恥ずかしいほど胸が高鳴った。
橋本さんも決して社交的とは言えない。けれど私が不思議だと思うのは、彼がときおり話す小さな冗談や、コーヒーサーバーの前で漏らす微かな愚痴が、私の中で心地よく響くことだ。まるで、よくチューニングされた弦楽器を共鳴させるように、彼が放つ些細な言葉が、私という中庭に花粉を運んでくる。その花粉が、いつか私の内面の草むらで小さな花を咲かせるかもしれない――そんな期待に似た予感がある。
ある日、年度末の繁忙期で残業が続く中、珍しく部署間で打ち合わせが開かれた。編集、営業、デザイン、それぞれ数人が集まり、次期企画の大枠を固める会議。私は端の席で黙ってノートを取り、橋本さんは隣のテーブルで腕を組んで聞いている。彼は時折顎に手をやりながら、低めの声で質問を投げかける。その声が会議室の白い壁を撫でるように伝わり、私の耳をくすぐった。
会議が終わると、空気は一気に緩んだ。皆が立ち去る中、私がペンを片付けていると、彼が近づいてきた。「お疲れさま、最近忙しそうですね。大丈夫ですか?」不意の問いかけに、私は微かに戸惑う。視線を上げると、彼の黒縁眼鏡の奥で、柔らかな瞳が私を見ていた。「あ、はい、大丈夫です……ちょっと、残業が多くて」それだけ言うと、私は気恥ずかしさでノートをぎゅっと抱きしめた。すると彼は小さく笑って、「僕も似たようなものです」と続けた。その声はまるで散文詩のように私の耳に溶ける。
日が傾き、オフィスには疲れた空気が漂う。私は窓際に立ち、ビル群の隙間に沈む夕陽を眺める。明日の校正案件を考えながらも、頭の片隅には橋本さんの笑顔が染みついて離れない。なぜ彼をこんなに気にするのか、自分でも整理できない。ロマンティックな妄想が先行しがちな私だが、現実はそう簡単にはいかない。出会いの数は限られ、気持ちを伝えるには何か理由が必要な気がしてしまう。INFP的な弱気の部分が、私を臆病にさせているのかもしれない。
週末、勇気を出してメールを送ることにした。何気ないお礼の言葉と、「今度よかったら、会社帰りにコーヒーでもいかがですか?」という短い誘い。送信ボタンを押すまでに何度も迷った。でも送ってしまえば、後は待つだけ。まるで秘密の日記の一ページを破り取って、相手の机にそっと差し込むような行為だった。
一時間後、彼から返信が来た。「ぜひ、行きましょう。いつが都合良いですか?」その文面がスクリーンに浮かび上がると、私の心には一瞬、春のような風が吹き抜けた。
多分、私は彼と深く語るのが好きになるだろう。深夜の喫茶店で、互いにゆるやかに言葉を紡ぐ時間を想像する。内面に巣食う複雑な感情も、理想への憧れも、過去の些細な痛みも、彼になら少しずつ明かせる気がした。私の中庭に落ちた小さな花粉は、きっと静かに花開く。私という物語の新たな章が、彼を軸に書き加えられようとしている――そんな確信が、胸の奥で柔らかく息づいていた。
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