祈りと呪いについて

祈りと呪いは、本質的に同じだ
自己満足押し付け合い


祈りとは

自他を対象に願い、望みを託す行動が〝祈り〟の原点。
でも自身に対する祈りは言わずもがな、他人への祈りも最後には自分に終着する。そもそも、単なる反芻なのかもれしれない。

手を合わせる行為

祈る際に、手を合わせるーつまり合掌をするーことがある。
神社への参拝やいただきますの挨拶が身近でしょう。
例に挙げた前者が祈り、後者が感謝といった具合。
いただきますは、食べ物に対する感情の現れ。合掌は外部への表現方法として存在する。これは感謝に限ったことではない、普遍性を持つ。
こう考えると、祈りは感謝を包含しているように思えてくる。
合掌を伴う行為の起源は、祈りそのものなのではないか。

手を合わせることは、何も独りで行うだけではない。
他人と片手を出し合い、さも合掌のような形を作り出せる。このような場合は祈りだろうか。
感情が昂ったときにハイタッチをするが、それは感情の共有を願っている。この人、いま私と同じ方向性の感情を抱いている、意思をともにしていると。

呪いとは

自己を呪い、他者を呪う。
大抵は他者の凋落を願い、呪う。

だが、自己を呪うこともある。自分がどうしようもなく気持ち悪いことだってある。自身を構成する要素を肯定できないことだってある。
一見、願いに思えないが、それは破滅に目を奪われているに過ぎない。
そこには、微々たる救いと夥しい消失の願望が渦巻いている
どちらも願いである。

祈りと呪い

祈りと呪いは本質的に同じ。

祈りは、元来祝詞を唱える。言葉を発することが表現法だった。それが現在では、別の方法が出てきている。
呪いも呪いの言葉も行動もある。他者を呪う場合が例として明瞭。
表現することが失われなければ、形は問わないというのは本質的であろう。

だが祈りは呪いに転じる。本質的に同じだからこそ。
祈りは、祈られた者の好転を願う。だが祈った者の真意がそのまま届くとは限らない。
伝わる段階で変容を遂げるかもしれない、伝わった時点で歪むかもしれない。それらを経た祈りは呪いに変転し、苦しみの源泉となる。
この苦しみを超えられる時があれば、それが祈りの成就かもしれない。

呪いから祈りに転じるかは、わからない。
しかし、そのようなことがあるならば、とても清々しい感覚が待ち惚けしているだろう。


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