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【書評】井筒俊彦『イスラーム文化』は読みやすく、ためになる良書

ロッシーです。

井筒俊彦の『イスラーム文化』を読みました。


イスラム文化についての理解

キリスト教については結構詳しい方はいるでしょう。

しかし、イスラム教やその文化について詳しい方はどうでしょうか?

本書冒頭で、このような記載があります。

従来われわれ日本人はイスラームにたいしてあまりにも無関心でありすぎました

本書が最初に発行されたのは1991年です(もとになった講演は1981年)。

それから約30年以上が経ちましたが、私達がイスラム文化にたいして持っている理解度はどのくらい向上したのでしょうか?

おそらくほぼ変わっていないというのが実情ではないかと思います。

しかし、今後イスラム文化への理解が必須となる時代が到来する可能性は非常に高いです。

例えば、これから成長が加速するであろう東南アジア諸国(タイ, カンボ ジア,ラオス, ベトナムなど)において、自分の勤務先がビジネスをする場面が増えるかもしれません。その場合、イスラム文化への理解なくしては失敗する可能性が高いでしょう。

しかし、本書を読めば、あなたのイスラム文化への理解レベルは、一気に高まることは間違いありません。

私は、井筒俊彦の『意識と本質』が難しくて読めなかったため、本書も無理かな~と思いながら手に取りました。

しかし!なんという読みやすさ!

「読める・・・読めるぞ・・・」とムスカ大佐状態だったのです(笑)。

こんなにリーダブルで、かつイスラム文化への理解を助けてくれる本はなかなかないと思います。ぜひ気になる方は一読していただきたいと思います。


ということで、自分自身の備忘録として、本書の内容でポイントとなるものを下記に記載いたしました。皆さんのご参考になれば幸いです。

①宗教について

  • イスラムは砂漠的人間の宗教と連想しやすいが、そうではない(砂漠的人間とは、いわゆる遊牧生活を送るベドウィンのこと)

  • 預言者ムハンマドは砂漠的人間ではなく商人であった。当時のアラビアにおける第1級の国際的商業都市の商人であった。

  • 彼は、砂漠的人間の価値体系そのものに真正面から衝突し、イスラム教を築き上げた。ゆえにイスラム教は商人の同義を反映した宗教だった。

  • 聖典「コーラン」には商人的な表現が目立つ(人間がこの世で行う善悪の行為を「稼ぎ」と考えることなど)

  • 聖典「コーラン」が唯一無二、最高の聖典。これと並んで「ハディース」(ムハンマドの言行録)があり、これが事実上、第2次的な聖典となっている。(「コーラン」を中核とし、「ハディース」を周辺領域とする)

  • イスラム文化は「コーラン」をもとにして、それの解釈学的転回として出来上がった文化であるといってよい。イスラーム的なものすべてがコーランの解釈学にほかならない。

  • イスラム教は、原則的に「聖」と「俗」との区別を立てない(聖俗不分)。「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」という考えはイスラム世界ではナンセンス。人間生活のあらゆる局面が宗教に関わってくることとなる。

  • ムハンマドは人類の歴史に現れる最後の預言者であり、これからあとは世の週末まで人類の間に預言者は現れない。つまり神の啓示はここで終了する。

  • イスラム教的には、キリストに神性を認めることは絶対に許されない。よってムハンマドも預言者であるが一介の人間であり神的なものはないこととなる。神は唯一の存在であり、これと並ぶものは他にまったく何もないし、ありえないからである(二元論、多元論の否定、多神教、偶像崇拝の禁止)。

  • 神(アッラー)は全能である。世界をいっぺん創造したきりで、あとは事の成り行きに任せるのではなく、それ以来ずっと時々刻々に全存在界を厳格に管理し、支配している主宰者である。つまり、瞬間ごとにまったく新しく世界が創造されるという世界観をもつ(非連続的存在観)。


②法と倫理について

  • イスラムにおいて、宗教と法、宗教と倫理とは密接に結びついて一体化している

  • 神はその性質上純粋に、絶対に善であるから、どんなことがあっても悪をなすことはあり得ない。一見悪と見えることも、神の見地からすれば、実は善である。

  • イスラムの世界観では、来世がある。しかし、来世が至上価値であるからこそ、それへの準備としての現世にものそれなりの価値を認めるという立場である。

  • 最後の審判において、人間は一人ひとり神の前に引き出され、現世での諸行を審判される。そして、天国か、地獄かが決められる。

  • 神に対する態度は、イスラム教の初期であるメッカ期では「恐れ」。それが後期のメディナ期になると「感謝」に変わってくる。つまり、イスラム教が、否定から肯定へ、消極性から積極性へ大きく転換し始める。

  • 初期(メッカ期)では、神と人との個人的実存的契約のタテの線だったものが、後期(メディナ期)になってくると、預言者を中心とする同胞的結びつき、ヨコの広がりが加わり、イスラム教が社会的宗教に転生していく。その結果成立した信徒の集団を共同体(ウンマ)という。

  • このような宗教的連帯意識が出現したことは、アラブの歴史では未曾有の大事件であり、社会革命だった。それまでは、部族に基づく「血の連帯感」が行動原理となっていた(砂漠的人間の価値観)。イスラム教は、「血」ではなく、唯一なる神への共通の信仰を新しい社会構成の原理として打ち出した。

  • それにより、イスラム教は普遍性、一般性、世界性を獲得した。その結果、世界的宗教となった。ユダヤ共同体のように民族的に閉鎖された社会ではなく、誰でもその一員になることが許されている(開放性)。

  • イスラム教における人間観:人間の本性は元来、清浄で汚れなきものと考える。キリスト教のような原罪はない。また、仏教の説く業(カルマ)の思想や観念もなく、輪廻転生を絶対的に否定する。

  • 人間は、この世にただ一回だけ生まれてくる。死んだ人は復活の日まで、白骨と化して地下に留まり、中途で生き返ることはない。

  • 「来世こそは不滅の宿」だが、現世も決して「つかの間の遊び事」ではない。逆に、現世は極めてまじめな、真剣なもの、深い宗教的意味のあるものとなる(現世の結果が審判の日の結果になるため)。

  • 現世を厭い、孤独の静寂のうちに解脱を求めようというインド的、つまり現世否定の態度(隠者、世捨て人)はイスラム教本来の立場では認めない(ただし後述するように別の立場をとるものもいる)。それは、神によって意図された現世の意義を完全に無視し、蔑するものだからである。俗世の嵐に身をさらし、現世を少しずつよいものに作り変えていこうとすることこそ正しい人間の生き方である。

  • 西洋文明をモデルにして近代化を進めようとすると、聖俗を分離せざるを得ないが、それはイスラム教本来の精神にもとる。このジレンマをどうするのかがすべてのイスラム国家が直面している問題である。

  • イスラム法においては、善悪を決めるのは神の意志。それは全て「コーラン」から知るほかはない。しかし、コーランはあらゆる場合における具体的な規定を与えるわけではないので、「コーラン」およびその補足としての「ハディース」のテクストを解釈する「解釈学」が発展した。

  • 解釈においては厳密に論理的、合理的であり、特に論理学が尊重され、かつ異常な発達をとげた。

  • イスラム法は神の意志そのものを命令と禁止の体系として形式化したものであり、宗教法である(シャリーア)。しかし、聖俗不分なので、人々の日常の生活の隅々までその規制力が及ぶ(我々が普通に理解している法律とはまるで違ったものとなる)。そのため、法を意識することなしには日常生活を生きることができない仕組みになっている。

  • 具体的には、巡礼のやり方、断食の仕方、礼拝の仕方、結婚、離婚、遺産相続、飲み物、衣服、香料の使い方、挨拶の仕方、食事のあとの爪楊枝の使い方、トイレの作法など、社会生活、家庭生活の細部に及んで詳細に規定されている。

  • 西暦9世紀の中頃に、法律に関して聖典解釈(イジュティハード)は禁止された。それにより法的安定性を確保することはできたが、社会の変化に応じて発生する諸問題について、コーランとハディースを解釈して対応することができなくなり硬直化という弊害が起こる。

  • 聖典解釈の自由(イジュティハード)の門を再び解放するかどうかが、イスラム社会の今後の発展において重要なポイントになる。

  • イジュティハードを禁止しなかったのは、イランのシーア派


③内面への道について

  • 法=宗教と考える律法的精神をとる立場(ウラマー)と、それに反発する立場をもつ人達(ウラファー)がある。

  • ウラファーは、内面的なものを重視し、「どんな事物にも、その奥には目に見えない隠れたリアリティーがあり、それを深く追求していくべき」という信念をもつ。

  • ウラファーは、シャリーアという表に現れており、目に見える宗教はあるが、その奥には、内面、精神的実在性がある(ハキーカ)と考える。

  • このような内面に向かう文化には二つの系統がある。ひとつは「シーア派」であり、もう一つは「神秘主義的イスラム(スーフィズム)」である

  • シーア派のコーラン解釈は非常に内面的。彼らにとってコーランは一つの暗号書であり、表面の意味の裏側には何らかの精神的な意味(ハキーカ)がある。

  • 暗号である以上、解読されなければならない。テキストの外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作(タァウィール)により、もとの神の意志そのものを知ることができると考える

  • しかし、この考え方はイスラムの常識と正面衝突する。なぜなら聖俗不分であるにもかかわらず、内面的意味に基づく世界が「聖」なる世界であり、それをしない外面的意味に基づく世界は「俗」なる世界ということになってしまうため。この点において、シーア派とスンニ派は対立する。

  • スンニ派の見方では、現世がそのまま神の国であり、そこに聖も俗も区別はない。シーア派は根本的にイラン的であり、彼らにとって現世は聖なる次元と俗なる次元に分かれており、タァウィールにより内面化され見直されない限り、完全に俗なる世界であるとみる。善と悪、光と闇の闘争という古代イラン、ゾロアスター教の二元論的世界観がイスラム化されて働いている。

  • 内面的解釈であるタァウィールは、誰もが自由にやってよいわけではなく、シーア的霊性の最高権威者である「イマーム」がしなければならない。

  • イランの「十二イマーム派」は、人類の歴史においてそのようなイマームが12人だけ現れたと信じる人々のこと

  • イマームは、預言者そのものの内面であると考える。つまり、ムハンマドなどの預言者は外面的預言者であり、シーア派のイマームは、内面的預言者であるということ(仏教における顕教と密教との違いに近い)。この考え方は、イスラム教正統派の立場から見れば異端となる(ムハンマドのほかに預言者が何人も認められることになってしまうため)。

  • イスラム教の正当的な考えでは、神の啓示はコーランを最後として完全に跡絶えてしまうとされている(ムハンマドは最期の預言者と書いてある)。しかし、シーア派は、それはコーランの表面に書いてあることにすぎず、外的啓示が終わったということでしかないのであり、内的啓示が終わったわけではないと考える。つまり、預言者の内面的なリアリティーであるハキーカそのものと一体化したイマームがこの世にある限り、内的啓示は続いていくのである。

  • 第12代のイマームは、西暦9世紀末の人である。それ以降はもうイマームは現れない。しかし、シーア派は第12代のイマームは本当は死にはしなかったと考える。

  • 第12代イマーム「ムハンマド・イブン・ハサン」は、4,5歳のときに地下の密室に入っていったきり、そのまま行方が分からなくなってしまった。シーア派は、彼はこの地上ではなく、存在の見えない次元にお隠れになり、それが現代まで続いていると考える。第12代イマームから発出する内的啓示が人類の歴史に働きかけており(ふつうの人は気が付かない)、彼は不可視の世界の奥底にあって、現世に君臨する王者なのである。そして彼は週末の日にメシアとして再びこの世に姿を現してくると信じられている。

  • イマーム不在(お隠れ)の間、現実に世界を治める資格をもつのは、イマームからの霊感を敏感にとらえる霊性的アンテナを備えた人でなければならない。

  • もうひとつの内面の道である「イスラーム神秘主義」(スーフィーズム)においては、シーア派のイマームとは異なり、人は生まれや血筋ではなく、修行によってワリー(内面的本質であるハキーカに通じた人)になると考える。

  • そのためには、自我の意識の払拭を目標とする。単に我を忘れるというのではなく、自分の内に自分ならぬものを見出そうとする積極的な努力をする。

  • スーフィズムを信じる人(スーフィー)は、徹底的に現世否定の道を進む。具体的には禁欲生活、苦行道の実践などであり、主体的に現世への一切の執着を断ち切ろうとする。

  • スーフィーたちは、現世を強いて良くしようとはしない。現世を神の意志に従って建設しなおすことなどは問題外。現世ははじめから根源的に悪なのであり、神の意志が実現される場所ではありえないという立場。

  • むしろ、一刻も早く現世に背を向けて、現世的なもの一切を捨て去らなければならず、それこそが神の意志だと考える。

  • その結果、共同体の社会的秩序を守るための規範であるシャリーア(イスラム法)はその価値を失い、それほど大切なものではなくなってくる(反シャリーア的態度)。

  • スーフィーは、唯一の神の前に、ただ一人で立つものである

  • いくらシャリーアを遵守し、外面生活をきれいに整えたところで、内面が汚れていればなんにもならない。形式だけ完璧に道徳的に生きても、内面精神がなければ話にならないと考える。「ただ一粒の内的誠実さは、断食や礼拝より千倍も重い」

  • 人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければならない。つまり、どこまでも人間と神という関係にあり、神だけにならない。神だけでないのなら二元論であり一神教ではない。真に実在するものは、ただ神だけ、それこそが本当の純粋な一神教である。よって、スーフィーは何が何でも自己否定、自己意識の払拭に全力を尽くすこととなる。

  • 自己否定の道の極限において、スーフィーは突如として神を体験する。それにより、私と神が合一する(我こそは神)。

  • しかし、この考えは共同体的、シャリーア的イスラムを代表するウラマーたちにとってはこの上もない神の冒涜と捉えられる。


以上です。

いや〜学ぶことって面白い!

久々にそう思わせてくれる良本でした。
井筒俊彦氏のような天才の書物を読めたことも非常に嬉しかったです。やはり『意識と本質』も再チャレンジしようと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!



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