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【書評】ホーソーン『緋文字』を読む。本文の姦通物語より、序文はもっと面白い。

ロッシーです。

ホーソーンの『緋文字』を読みました。

1850年に米国で発表された作品です。

カリフォルニアがアメリカ合衆国に併合されたのが1848年、日本にペリーが浦賀に来航したのが1853年ですから、相当昔の小説です。

そのせいか、文体もなにやら古めかしい感じがして、ある種のいい味を出しています。

『緋文字』は、アメリカ文学においては有名な作品らしいですが、あまり知らない人も多いと思います(私も知りませんでした)。

ストーリー自体は単純で、いわゆる「姦通の物語」です。そして、物語の主要な登場人物も4人しかいませんので、読みやすいです。

今の時代であれば、「姦通」なんて珍しくもなんともありません。しかしこの小説の場面となってた当時の厳格なピューリタン社会ではそれは「罪」でした。

何が罪で、何が罪でないのか、というものは、時代によって移り変わるもので、絶対的なものではありません。

しかし、何が罪なのかは時代によって変わるとしても、罪という概念自体はいつの時代でも確固として存在し続けます。

罪というものに関する深い洞察があるからこそ、この小説はこれまで読み継がれてきたのでしょう。


個人的には、小説の本文よりも、序文の「税関」のほうが面白かったです。(序文といいつつ65ページほどありますが)

ホーソーンは30代から40代の中頃まで、ボストンやセイラムの税関で働いていました。

その仕事で得た経験が、この「税関」では語られています。

単なる税関での仕事の描写であればさほど面白くはありませんが、ホーソーンは、税関での仕事がさぞかし嫌だったのか、同僚をこきおろしているので、それが非常に面白いのです。

例えばこんな描写。

だが、何と言っても、この老人の原動力となっていたのは、本性として動物になりきれることの完成度である。そこそこの割合で知能が配合され、ごく微量の精神性が添えられていたが、やはり精神の要素には乏しかったということで、あれより少なければ四つん這いで動いてもおかしくないという、ぎりぎりの構成になっていた。

あとはもう、どう見ても薄っぺらで、ごまかしてばかりで、つかみどころがなく、無駄に生きているとしか言えない。結局、この人には魂も心も精神もないのだと思った。

なかなかの毒舌っぷりです。

でも、単にバカとかアホとか言うのではなく、とても洗練された表現でディスりまくっているのでそこが秀逸です。読んでいて私は一人でウケていました。

当時であれば、相当炎上したでしょうね。

彼は小説という媒体を用いて、過去の同僚に意趣返しをしたかったのでしょう。彼が今の時代に生まれていたら、Twitterで毒舌を投稿しまくっていたのかもしれません。

そういう意味では、いつの時代でも人間のやることは変わらないのだなぁと思います。変わるのはツールだけ。


『緋文字』を読むなら、「税関」をぜひ読んでもらいたいです。「税関」を省いている本もあるかしれませんが、これを読まずして『緋文字』を読んだことにするのはもったいないと思います。

メインディッシュよりも、前菜のほうが美味しい。

私にとって『緋文字』はそんな小説でした。

Thank you for reading !

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