真実、なんてないかもしれない。
※宗教を語りたい記事ではありません※
主に高校生から大学生時代にかけて、私にとっての興味関心は「真実」だった。それは、特に宗教において。
両親ともにキリスト教信者(クリスチャン)であり、特に母は敬虔な信者だった。私も幼い頃は敬虔だったと思う。ただ、キリスト教学校の中高一貫校に進学し、少しずつ崩れていった。
詳しくはこちら(はてなブログだけど)
キリスト教系の学校には道徳の代わりに「聖書」という授業があるんですね。そこでは色々学ぶんですが、当然、聖書の成立過程についても学ぶ。
それまでの敬虔な信者である私にとっては、聖書に書かれていることが、真実であり、事実だった。書かれてることは実際に起こったこと。
でも、そうではないと教えられた。ノアの方舟の話はこの時代に作られたし、アダムとイブの話もこの時代に作られた。なんなら、創世記が一番最後に作られた。(※実際に起こったことであるとしている宗派もあります)
薄々感じてはいたけど、学校で、教えられたんですよね、あれは作り話だ、って。
それから、それだけが原因ではないけど、心が離れていった。
真実はなんだったんだろう。
私は、キリスト教が真実であって欲しかったんだと思う。例えば日本の仏教みたいな、「人生をよく生きていく為の教え」とかじゃなくて、そんな、他と並列されるような「宗教のひとつ」ではなくて、唯一の真実であって欲しかった。
だって、人生をよりよく生きる為なら、キリスト教を選ぶ必要がないじゃん。
それから、哲学を読んだりSound Horizonを聴いたりした。
真実が知りたかった。本当はなんなんだろう。
神はいるのか、いるとしてどんな存在か。
多分本当は、帰りたかったんだろうな。何も疑う気持ちがなく、信じてた子供の頃に。帰りたくて、納得できる理由がどうしても欲しかったんだろうな。
見つからなかった。
それから私は、色んな神話や宗教に手を出した。ギリシャ神話を読んだし、統一教会みたいな人に話しかけられて、実際に教会?まで行ってみたし、幸福の科学の合宿にも参加した。
どこかへ行って、自分の信仰の過程を話す度に「あなたは真実が知りたいんだね」と言われた。
真実。
たくさん、スピリチュアルの本も読んだ。全く別のような人たちが、同じようなことを言っていて、それは信憑性があった。
たくさん、読んで、考えて、最終的に辿り着いたのは、「真実なんてないんじゃないか」ということ・
ない、というか、知らなくていい、かもしれない。
これは、全く宗教とは関係のないところから、私にやってきた考え。
ローランが見ているかはわからないけど、サンホラの話をします。
私の好きなアーティストに、Sound Horizonというのがあります。Revoという人がやっているプロジェクトだと思ってください。
超雑に説明すると、ライブがオペラみたいな感じ。ストーリーを曲で進めていく。歌手も演じるし、歌のない役者もいる。
その中、Revoさんがやっている役が、サングラスをしていたりお面をつけていたりで、顔が見えないことがある。そこで聴衆は気になる。「あれはRevoなのか?それとも別のアクターなのか?」
ライブの度に、Twitterに流れてくる。
「ネイルが何色だったからあれはRevoに違いない」「指輪をしていたから」「見えた目が別人だった」「体格が」「手の振り方が」「マイクを直していた」
確かに、そこに事実は存在する。でも、そこは別にいいんじゃないかな、とあくまでも私は思うようになった。
私が見えている範囲で、見せてもらっているものを、純粋に受け止めたらいいんじゃないか。
例えば、Revo担当の役が、舞台に同時に2人存在していたら。それは確実にどちらかがアクターなんだろうことはわかってしまうけど。(大体、Revoがやる役だなんて、公式でも本当は言われてないじゃないか!笑)
見せたいものの本質、以外の部分のディティールを、ひとつひとつ検証して判断していくのは野暮かもしれないな。
結局私たちは、見たものしかわからない。
そうだ、見たものしかわからない。
また別の話がある。
ヴィジュアル系バンドにVersaillesというのがいる。
Versaillesは、一度、数年間活動休止をしていた。
この理由については、復活後のドキュメンタリー映像で説明されていた。大体、「メンバー全体の衝突」「ドラムとボーカルが合わなくて」みたいなことだったと思う。
のに、自分はVersaillesに詳しい、メンバーに認識もされている、というような人が、わざわざTwitterで、私に返信をしてきた。(気がする。記憶が曖昧だけど。)
「あれは違う。本当は、ボーカルとギターが衝突をしたせいだ」
それが例えば事実だったとして、私になんの意味があるんだろう?彼らはアーティストで、彼らが見せたいものを、わたしたちに見せてくれる。そうして提示された活動休止理由に、わざわざ「本当は違うんだよ」と物知り顔で言うことに、何かいいことがある?
別に、事実じゃなくてもよかった。知らなくてもよかった。知りようのなかったことを、知りたくなかった。
真実。
でもそれは、真実だったのかもしれない。
でも私は、それをいらない、と思った。
あんなに、求めてたのに。
あとは世界史もあるかもしれない。
私が習った世界史と、今現在立証されている事実が異なるようなこと。
私が世界史を好きだったのは多分、物語として享受していたから。だから後から「実はあれは違ったんだ」なんてこと言わないで欲しいんだろうな。世界史については、仕方ないことなんだろうけど。
でも立証が100%なのか。もわからないよね。
この話を書こうと思ったのは、タイムリーな話題として「THE FIRST TAKE」への疑義があがったからかもしれない。
あれはファーストテイクなんかじゃない、と訴えたのち、謝罪したアーティスト。
それも真実の話だと思ったな。
あれがファーストテイクなのか、そのままなのか編集で調整されてるのか。
一般人はわからないこと。だったら受け取る側がそう思えたらそれでいいんじゃないか。(私は企画のことをなんとも是も非も思ってないけど)
趣旨は違うんだろうけど(あれを聴いた人が挫折するのは違うって感じだった)、わざわざ「違う」と言う必要があるのか。
AI生成画像を疑うのも似てるかもしれない。
そこに一枚の絵があって、それがAI生成なのか、人が手で描いたのか。確かに描き手にとっては重要な問題かもしれないけど、見る側がそこを厳しく追及するのって、なんなんだろうな。
シュレディンガー、とは違うかもしれないけど。
「見えていないもの」の可能性は無限なんじゃないか。
知り得ないこと。知ることができない過去のこと。
その無限の可能性の中に、「唯一の真実」なんてものはないんじゃないか。
これはネガティブではなくて、むしろ、執着を手放すような。
「真実以外は受け入れない」という頑なさを。
だから私は最近「真実なんてないんじゃないか」と思う。
戦争の原因も感染症流行の原因もさ。
これはなんでも解明しようとする、人間のどうしようもない性質なのかもしれないけど。私はそこで、「なんでも解明しなくていいんじゃないか」と思ってるんだな。
結局アンチ科学至上主義なのかもしれない。
真実なんてないんじゃないか、と言い出すと。話を戻して宗教についてはどうなったの?となる。
ただ一つの真実なんてない。創世記は事実かもしれないし、そうではないかもしれない。アダムとイブは実在した?蛇はしゃべった?バベルの塔は?
真実はない、と思うと、全部ありだよね〜と思える。小さい頃は嫌いだった神社も仏教も。全部いいんじゃない。占いもスピリチュアルも全部だ。
ダメだったら、ロマンがないじゃない。
そう、だから最終的には、私は「キリスト教も数ある宗教の一つである」ことを受け入れつつあるかもしれない。世界の真理は気になりはするけど、多分それって、自分が信じたものなんだと思う(突然の暴論)。
真実はない、って、本人が信じたことがその人にとっての真実になる、ってことだ。だからちゃんと言うと、「万人に共通する真実はない」かもしれないな。
こんなつらつらと書いておきながら、私が今後どこかで事実に執着する場面があるかもしれないけど、大目に見てね。
つまり、普通に生きていく分には、万人にとっての真実は全く問題じゃないってことだ。必要以上に考え込んでエネルギーを消費するな。私は今、確かに生きてるし、もしかしたらこの記事を読んでくれているあなたも、今確かに生きてる。それ以外に執着すべき問題なんてないのかもしれないな。