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私が育った教会への距離感

〜前置き〜

私は両親ともにクリスチャンの家庭で育った。
父はそうでもなかったけど、母は元々牧師の資格を持っていたし、熱心な信者で、たまに礼拝で説教をするくらいの人。

プロテスタントのバプテスト系。

生まれる前から?高校を卒業するまで、まぁ約18年間教会に通った。
ほとんど毎週行ってたと思う。

私も小さい頃は本当に熱心な信者だったと思う。
ちゃんとはわかってなかったけど、私にとっては教会が当たり前だったから。中一で洗礼を受けた。

中高で同系列のキリスト教系私立中高一貫に通ってから、聖書や世界史の勉強をしたり、家で色々あったり、教会でも色々あったりして、信仰は薄れた。

と、今回はそういう経緯を話したい訳ではなくて。

詳しい経緯 ↓はてなブログですが ※長い

簡単な経緯 ↓note


〜本題〜

信仰心は薄れてたし、教会に苦手な人はいたけど、ずっと通ってたあの「教会」は、私にとって大好きな場所だった。
高校生の時に建て替わったのは寂しかった。

大学に入って一人暮らしをして、教会へ通うのをやめた。
実家に帰った時やクリスマス礼拝に行くくらい。

それでも、そうやってすごくたまにでも、気軽に行ける場所だった。

通うのをやめてから…10年くらい?
就職で東京に行ってたけど、地元に帰ってきた。

それから、数ヶ月に1回くらい、教会に通うようになった。
(母から「イースターだから来たら」とか、「奏楽をする人がいない」と言われるので)


年に1、2回の時は気にならなかったのに、最近、気になるようになってきた。

「私は、何なんだろう?」

洗礼を受けたから、クリスチャンではある。
(信仰はほぼないのに?)

信仰ないのに奉仕(奏楽)していいもの?
(基本的には、洗礼を受けて教会員になった人がするもの)

教会員のままではある。
(献金しなかったり、手続きをしたりすれば会員じゃなくなるらしい?けど、母が私の名前で献金を続けているようなので。)

でも、今通っている人の多くは、私を知らない。
私も、通っている人を知らない。

通わなくなる前に建て替わったことも大きいかもしれないけど、何か、ここは生まれ育った場所であるはずなのに、私は部外者でもある、ような気がする。

それがなんとなく寂しい。
私はこの教会の人なのか?
そうだとも言えないし、新しい人だとも言えない。
求道者でもなくて信仰心や勉強する気持ちもなくて、でも来てる。

どっちとも言えないのが寂しいのかな。

どんな気持ちで座ってたらいいのかわからない。

好き勝手歩き回っていいのかな。勝手は知ってるんだけど、私を知らない人が見たら不信感を抱くだろうか、とか。

そうやって色々考えて最後は、建て替わる前の教会に想いを馳せる。
純粋に建物が好きだったし、思い出もたくさんあった。

日曜日、礼拝の時間より早く来ると、女性たちが4,5人でお昼ご飯の準備をしてる。
当時は何も思わなかったのに、今ではその光景が恋しい。

ご飯が美味しくて有名な教会だった(らしい)。
小さい頃私も、だんご汁のだんごを作るとか、手伝ってた。

あのだんご汁が食べたいな。
あの漬物美味しかったな。

どうやって作るか聞いておけばよかった。

今はもう、そんな豪華なお昼ご飯が作られることは中々ないらしい。
人が減ったのかな。
高齢化もあって、亡くなった人もいるし、体調的に来れない人もいる。

そういう変化を、私はすごく寂しく感じてしまう。
何事も。

変化に合わせていくしかないんだろうけど、寂しいな。

私がやる!っていう気概があればいいんだけど、そんな気力はないし、結局は、信仰のない私がそれをやるってどういうことなんだろう、と思う。


ごちゃごちゃ考えている。
難しい気持ち。

でも、こんな何もない私でも、そこに「いつでも行っていい」っていう安心感だけはある。
すごいよね。信仰心はないのに、この教会とか属してる連盟の人たちへの信頼はある、みたいな。

当然、人間の集まりだから中には苦手な人もいるけど、大きな塊として、私はこの場所を信頼してるらしい。

だから、悩みながらもたまに行く。
し、もし行き倒れそうになったら駆け込むって決めてる。

不思議。

次に考えてることは、もし子供が生まれたら私はどうするんだろう、ってことだな。

私はプロテスタントで、夫はカトリックで、挙式はカトリックでしたけど、二人とも状況は似たような感じ。たまにしか行かない。

でも、何回かは連れていってみたい気持ちもある。
これも不思議。


寂しかったり変に信頼してたり、よくわからない距離感。

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