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Master Maggie (2019) レビュー
ハリウッド俳優達を指導する伝説の演技コーチ、マギーの元に、無名の俳優がやってくる。大胆にも彼女の仕事場に乗り込み、演技指導をお願いするも、マギーが予想しないまさかの展開が待ち構えていた。
トライベッカ映画祭でワールドプレミア上映され、カンヌ国際映画祭のアメリカン・パビリオンで最優秀短編映画賞などを受賞し、アカデミー賞の候補にもなった作品。
ストーリー
ニューヨークはマンハッタンの小劇場に無名の俳優 グラハム(ニール・ジャイン)が訪れる。そこでは、伝説のアクティングコーチ、 マギー(ロレイン・ブラッコ)が年老いた俳優 ブライアン・デネヒー(本人役)に演技指導をおこなっている最中であった。
グラハムは、ドラマ「Law&Order」のオーディションのために演技指導をつけて欲しい、ただの石ころである自分を金塊に変えて欲しいと強引に頼み込む。はじめは取り合わないマギーであったが、しぶしぶ指導することに。マギーのセッションを通して、グラハムは次第に感情を引き出されていくが…
Law & Order
「Law & Order」といえば刑事・法廷ドラマの金字塔であり、「クリミナルインテント」「性犯罪特捜班」などいくつかのスピンオフ作品が放映されきた長寿シリーズである。一話完結、物語前半は警察による捜査から犯人逮捕、後半では法廷と評決が描かれるのが基本フォーマットだ。FOXチャンネルで何度も繰り返し観てきた思い出があるが、どのエピソードも一話完結でありながら、さまざまな立場で事件に関わる人物の心情をハードかつ濃厚に描き切っている、秀逸なシリーズである。
このシリーズのさらなる面白さは、毎回のゲスト俳優だ。いまの名優の新人時代を見ることができる(フィリップ・シーモア・ホフマン、ブラッドリー・クーパー、アダム・ドライバーなど枚挙にいとまがない)。
そして、そのゲスト俳優、時に新人俳優達の高い演技力には毎回驚かされるのであった。
ところで『Master Maggie』において、終盤に登場するコメディ俳優を除く登場人物はすべて「Law & Order」のゲスト経験者だ。グラハムはオーディションの合格を掴み取るために、伝説の指導者・マスター マギーに教えを乞うわけだが、マギーは「Law & Orderのオーディションに演技コーチは不要だ」と突っぱねる。
実際、Law & Orderでゲスト俳優に求められるのは、わずか1話うち十数分に凝縮しなくてはならないシビアな表現力であり、多くのゲスト俳優達がそれを体現してきた。シリーズのキャスティングユニットによると、①演技をしているように見えないこと、②役者自身がそのシーンや役割に何をもたらすのか、というポイントを重要視しているようである。つまり必要なことは、役柄に応じた適切な演技の仕方をコーチされることではなく、役者が自分自身の個性を役柄にどのように取り込み、あたかも実在しているかのように見せるのか、ということなのかもしれない。実在の仕方が、本物か、もしくは自然か、それが重要なのだ。
メソッド演技法
演技コーチは、グラハムのロールプレイから始まるが、スクリプトの一言目で何度も止められてしまう。マギーは、「スタニスラフスキーシステムを知っているか?」と問うが、彼はよく分かっていない様子だ。
マギー役のロレイン・ブラッコが、例えば「グッドフェローズ」や「ソプラノズ」でみせた、巨大な力に翻弄される女性の演技の自然な表現力は、当然、彼女自身の継続的な取り組みによって醸成されていることは間違いないが、スタニスラフスキーの「システム」を発展させ、「メソッド」を創出したリー・ストラスバーグの息子であるジョン・ストラスバーグの指導と影響にその基礎がある。ジョン・ストラスバーグは、「システム」や「メソッド」またはマイズナーとは一線を画し、「プロセス」を確立した。
従来法が自身の感情的または感覚的な記憶をある種機械的に、自分をプログラミングするように役柄と同化させるアプローチであることに比して、「(オーガニック・クリエイティブ・)プロセス」では、役柄の立場になって考えるプロセスから生まれる結果を演技としてアウトプットするというアプローチだ。より自発的であるため、時に役柄に適していないアウトプットが発生することが、表現に自然さを与える。そして最大の違いは、「メソッド」の特徴であり、時に悲劇を招いてきたため大きな争点にもなる「感情を生み出すためのトラウマ的な体験を追体験するエクササイズ」がないことである。
グラハムはマギーに導かれ「メソッド」のエクササイズを開始する。瞑想からはじまり、「妻を亡くしたある夫」という設定に基づいて、妻との思い出と感情、感覚を、実際に体を寄せ合いながらアプローチしていく。グラハムにスイッチが入り、キャラクターとの同化が始まる。そして「自分」が消え、グラハムが「ある夫」になり、その感情が本物になった瞬間…
このわずか2~3分で描かれるエクササイズのシーンで、メソッド演技の光と闇が巧みに描かれている。
結末
清掃員に「なにかの映画で見たことがある」と言われても答えない、NYの俳優を自称しておきながらスタニスラフスキーについてすっ呆けた受け答え、マギーに関して表面的な情報しか持っていない、オーディションが翌日に控えている(明らかな準備不足)など、伏線と呼べるのか分からないが、観進めていくうちに、徐々に結末は予測できると思う。
ただ、マギーが1カットでみせる表情の変化、その複雑さは予想できなかった。
素直なストーリーであれば、周りにバレないようにほくそ笑んで終わるとか、そこでは澄ました顔をしておきながら、さり気なくトイレの個室に入ったところで笑いが止まらなくなるとか、そんなところだと思う。
表情と表情の隙間に一瞬現れる、自分の中に生まれた新たな感情に気が付いてしまったような、微細ながらも自然な動きに圧倒された。
感想
監督のMatthew Bonifacioさんはこのアイデアと脚本を妻のJuliannaさん(監督/脚本家)と練り上げたそうだ。Matthew自身もアクティングコーチの実績があるから、セットや雰囲気は抜群だし、わずか22分とは思えない濃密さである一方、小気味よいテンポで流れていく。
また、演技のいたるところに重要なピースがあり、巧みな構成力も伺える。
(清掃員はレッスン中の日課があったから、彼を知っていたのだ)
(マギーはもうコーチの仕事に(恐らく日常生活にも)飽き飽きしていた)
冒頭で「なぜ俳優になるのか、なぜ幸せになりたいのか」、中盤では「何者かになりたい、その理由は本当なのか」、終盤では「なぜ自分の殻に閉じこもるのか(周りの騒音が大きいから)」という流れで、俳優として何者かになることへの葛藤、つまり、当初抱いていた純粋な希望から突如訪れる自己疑念、それを乗り越えることによる解放について、そっと置かれていることも美しいと感じた。『Master Maggie』から読み解くこの葛藤は、社会の中で日々ペルソナを被って生きることにどこか近い香りがした。
物事は表裏一体そしてどこまでも続いていく。いままでこの作品を知らなかったことが悔やまれるほど、何度も観返したくなるショートフィルムだった。
参考資料
Tribeca ’19 Interview: Matthew Bonifacio and Julianna Gelinas Bonifacio on the Teachable Moment of “Master Maggie”
JOHN STRASBERG STUDIOS
Lorraine Bracco: The Oscar Legends Interview (January 10, 2023)