アーモンド・スウィート
亀田益男は東神田小の校門の前は何度も素通りしては戻ってくるを繰り返している。益男には校門をくぐる絶好のタイミングが分かっている。その瞬間を逃せば、その日に一日不幸が益男について回る。何をしても先生に怒られ、授業はまったく集中できず、友達の松村義隆と二組の三輪大介ともすぐにケンカになってしまう。
ついこの間のタイミングを間違った日は、益男が授業中“う○ち”が我慢できなくなって、「先生!」と手を上げて天野先生の許可を待っていたらとても間に合わないと思ったので、静かに――う○こが洩れそうだったのもあり――席を立ってトイレに近い後ろ扉から出ようとした。確認の為に黒板の前の先生の様子を見たら運悪く先生と目と目があってしまった。目と目が合ったときの驚きでお腹にヘンな力が入って、う○こが半分くらい洩れてしまい、五年一組の教室はすぐに益男の“大”の臭いで満ち、教室の中が公の場でで嗅ぐには相応しくない臭いなので「うげ~ッ!」とか「キャーッ!」とか一組の中が阿鼻叫喚、狂瀾怒濤の状態になってしまった。クラスのみんながあまりにもワーとかキャーとか素っ頓狂な声で叫ぶものだから、益男は重くて臭くて温かいズボンを、股間を手で押さえながらゲラゲラと笑ってしまった。みんな楽しそうだなー、この騒ぎオレが仕掛けたんだなと思う喜びが笑顔となり、益々楽しくなり声まであげて笑ってしまったのだ。一組を授業不能にしたらしめた原因の益男を天野先生は許してくれるはずもなく、頭を掴まれるように廊下に出され、そのままトイレにまで連れて行かれ、
「亀田! お前は何てことをしてくれたんだ」と怒鳴られた。
漏らしたくて漏らしたわけではないという益男の説明を先生が冷静に聞いてくれるはずもなく、ズボンの中のう○こをさっさとトイレに流せ、すぐにパンツを脱いで捨てろと、興奮した勢いのまま矢継ぎ先生は言った。
「新しいパンツを持ってくるから、個室トイレに静かに隠れてろ!」と怒鳴られたまま、不承不承、益男はう○こを持ったまま個室に隠れた。
う○こが介在した事件ほど小学生男子を興奮させる物はなく、まして担任の先生が不在ならば一組の男子は益男が連れて行かれ、隠れている個室トイレを探すことは当然の行為となる。そして鉄槌をくだすとばかりに、個室トイレの扉はガンガン叩く、両手で掬った水を個室の上から投げ入れる、黒板のレールのところに溜まったチョークの粉を上から放り入れてきた。狡いのは誰も声を出さないので、益男にこんな酷いイタズラをしたのが誰なのか益男にはまったく分からなかったことだ。
「コノヤロー!」「ふざけんな バカヤー!」「見つけしだい殺すぞ!」と外の誰かを大声で脅かしてもみても、個室から出られない益男と、個室の前はおろかトイレの中からも走って居なくなれるクラスの誰かとは大きなハンデがあった。あまり大声で益男がトイレの中で騒ぐものだから、三組の担任の本田先生がやってきてしまった。本田先生が現れたことに気付いた誰かは、急いで一組の方へ走って逃げて行った。
「誰か中に居るのか!?」本田先生が個室の中の益男に、怒気を含んだ声で聞いてきた。
「助かりました先生。いま、ぼく酷いめにあったんです」情けなく聞こえる声をだして、外の本田先生に助けを求めた。
「誰だ、君は?」
「五年一組の亀田益男です」
「何で授業中に、トイレに居て騒いでるんだ」
「あのー…そのー…、う○こを漏らしまして…」
「トイレの中に間に合わなかったのか? で、天野先生はどこに居るんだ。クラスに居るのか?」
「あの…その…、ぼくが教室で漏らしてしまったので、クラスが大騒ぎになっちゃってですね…先生は着替えのパンツをどこかに取りにいってます」
「教室で漏らした!!」
「いや! …わざとではないですし…ふざけてもいなくて…いたずらでもなくて、事故です」
そこに天野先生がパンツを持って戻ってきてくれた。
「天野先生」
本田先生が天野先生に噛みつくよう言う声が益男に聞こえる。
「本田先生!? なにか?」
「何かではありません。あなたのクラスの生徒がトイレの中で騒いでいたんです。そして一番騒いでいたのが個室の中にいる亀田益男です」
「そうだったんですか。申し訳ありません」天野先生が謝る声がする。
「授業の妨げです。どこへ行ってらしたか知りませんが、ちゃんと自分のクラスを監督してください。謝って済むことではないです」
「そうですね。不注意でした。すぐに亀田の手当てをしたらクラスに戻って騒いでた者全員をしかりますので。ここはこれで…」
「まったく」といった声を残し本田先生はトイレから二組の教室に戻って行ったようだ。
個室の扉を叩かれ、益男が顔をだすと、頭からドロドロになった益男を見て天野先生は呆れたような顔をした。
「なんだお前は!」益男が怒られても困る。怒るならクラスの誰かだろう。
「これをしたのは誰だ」
「分かりません。言いつけ通り隠れていたんで」
「嫌だ!」「やめろ!」と言わなかったのか、おまえは!?」
「大きな声で騒ぎました。そしたら本田先生がトイレに来てしまって。いたずらした奴らは走って逃げて行って。個室に居るぼくだけが怒られることになって。とんだとばっちりです」
天野先生は深い溜め息をついたあと、呆れた顔をして、「もういい、早くパンツを着替えろ」と新しいパンツを、ウェットティッシュの箱を益男に渡した。
益男はウェットティッシュでお尻を丁寧に拭き、少し大きめのパンツに着替えた。益男のパンツはコンビニのビニール袋に入れられて先生が持っていった。
「すぐに教室に戻れ。このパンツは放課後まで先生が預かる。放課後に職員室に寄って、持って返ってお母さんに洗ってもらえ」
益男が「はい」と答えると、「いま履いたパンツも、お母さんに洗って貰ってから先生のところに返すように。いいな」
「はい」と答えると天野先生はまたどこかに行ってしまった。
いまクラスに一人で戻るのは嫌だなー、と思いながら戻った苦い想い出がある。
タイミングを間違えると不幸なった体験は、まだ沢山有り。
給食が配られたときに益男のおかずだけ皿からこぼれていたり、益男の分の牛乳だけなぜかなかったり。そのときは二組、三組のを回って余った牛乳がないか自分で探し回った。――なぜおれが!? 給食当番の仕事でしょ?
まだまだある。
まだウロウロと校門の前を益男が歩いて中に入らないでいると、朝の日直担当の先生が職員室から出てきて、校門の前に立った。
「何してる。早く入れ」言ってる間にホームルームチャイムが鳴った。
「チャイムが鳴り終わったら、遅刻扱いだからな!」
益男だって分かってる。しかしいまはタイミングではないんだ。
チャイムが「ポーン……」と最後の音が鳴り終わった瞬間に、絶好のタイミングがきたと頭の中で啓示があった。
益男は校門に向かって大股に一歩を出して、飛び込むようにして中に入った。胸に手を当て、良かった遅刻せずに済んだと安堵したのだった。
しかし立ち止まってはいけなかった。
「何してる。もうホームルームは始まってるんだぞ。お前は完全に遅刻だからな」
タイミングは間違わなかったのに、益男は朝から怒られた。