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私に出来ること(ネタバレ含む感想)

 かつてチャップリンは映画『独裁者』を撮ったとき、ヒトラーについてこんなことを言った。「奴のことを世界中の笑い者にしなくてはならない」そしてそんな『独裁者』から80年ほど経って公開された今回のジョジョラビットにもそれは受け継がれているのだろう。ちなみにヒトラーを演じた今作の監督であるタイカワイティティはポリネシア系ユダヤ人で、監督自身は「それをヒトラーが知ったら憤死するかもね(笑)」みたいに言っていた。

 ヒトラーユーゲント(ナチス党内の青少年組織)のキャンプに参加している10歳の少年ジョジョはキャンプの際に課題とされたウサギの殺害が出来ず、「ジョジョラビット」という渾名をつけられ馬鹿にされていた。そんな彼はヒトラーを想像上の友達としており、想像上のヒトラーに励まされながら生活をしていたが、ある日屋根裏で母親が匿っていたユダヤ人の少女エルサと遭遇する。実際のユダヤ人と初めて会ったジョジョはエルサと交流する中でエルサに恋をし、段々とナチスの考えに疑問を持っていく。そんなある日ジョジョの家にゲシュタポ(ナチスの秘密警察)がやってくる。2人の運命は…。というのがジョジョラビットのストーリーである。

 この映画の中で主人公のジョジョは当初ナチスに対し強い憧れを持っている。実際のヒトラーユーゲント自体もそういう教育を少年少女へ施していたし、その当時の子どもたちは、こういう子が多かっただろう。だってナチスはプロパガンダが非常に上手かった。制服だってポスターだって今見てもオシャレでカッコいい。それは事実だ。演説だって上手い。ワーグナーが流れ、力強い言葉が周りを奮い立たせるような錯覚を起こす。それは人を惹きつけるだろう。大人でさえ、それに騙されていたのだから。子どもなら尚更だ。

 そんな中でジョジョの周りにいる大人は少し違う。1番はジョジョの母親であるロージーだろう。ロージーは反ナチス活動をしている女性で、全体主義を馬鹿にし、息子に目を覚ましてほしいと思いながら接している。広場に吊るされた反ナチス活動家たちの姿を疑問に思うジョジョへ「彼らは出来ることをしたの」と伝える彼女も出来ることをしていた。
 そしてもう1人はヒトラーユーゲントで子どもたちに戦闘のやり方を教えるクレンツェンドルフ大尉だ。彼は同性愛者であり、本来、反同性愛を掲げていたナチスとは相容れない存在である。彼はロージーとは違い、自分のアイデンティティを否定するような存在であっても、その大きさに飲み込まれてしまった人物だろう。だからジョジョとエルサをゲシュタポから守った後もナチスを否定できなかった。

 しかし、そんな大人たちに守られたことでジョジョは自分で考えられるようになる。映画の終盤で、彼は本来自分を励ます存在としてつくった想像上のヒトラーに対して「僕は僕の出来ることをする!」と宣言し、決別を叩きつけるのだ。

 こんな風に考えられる子どもになれたのはジョジョが周りの大人に恵まれ、エルサに会えたからだろう。しかし、実際は戦争中において大人は子どもへ憎悪を吹き込む存在となっていた。この映画の中でもそういう大人は出てくる。具体的に言えばゲシュタポのディエルツ大尉やヒトラーユーゲントの教官たるミスラームである。

 多くの子どもたちが出てくることや、家具や衣装の可愛らしさ、ジョジョのイマジナリーフレンドであるヒトラーがコミカルな表情や仕草することで戦争映画ということを忘れそうになる瞬間があるが、上記で挙げた大人の登場やヒトラーユーゲントの「活動」、広場に吊るされた反ナチス活動家たちが戦時中を描いていることを嫌が応にも意識させる。日常の中に戦争がある、それは「戦時中」ということに他ならない。

 そんな戦争の描写が突如出てくるヒリヒリした劇中で、私がぞっとしたのはミスラームが子どもたちへ本を燃やすことを促すシーンとゲシュタポがユダヤ人を口汚く罵倒しあうシーンだ。
 ナチス然りクメールルージュ然り、全体主義を望む為政者は焚書をする。余計なことを考える前に脳味噌に纏足を履かせて考えを植えつけたほうが支配しやすいからだ。知識の強奪は思考を狭めさせる為の一番の近道だが、子どもたちが大人に褒められるからとそれを率先してする姿は辛い。すごく見ていて嫌だった。
 そして、ジョジョの書いたユダヤ人の本を読みながら大人がこぞってユダヤ人を罵るシーンも非常に嫌な気持ちになる。特定の人種に対しての中傷を大人がニヤニヤとしながら言うのもそうだが、その同調を子どもたちへ強いるところにも生理的嫌悪が湧く。子どもに憎悪を教えるな。

 上記のようなヘイトが溢れる状況のなかで、劇中では何度も出てくる言葉がある。「見た目じゃユダヤ人と見分けがつかない」という言葉だ。これは言い方を変えながら何度も出てくる。見分けがつかないから見分け方の本が欲しいということまで言う始末で、あれだけユダヤ人の馬鹿げた特徴を伝える授業を行なっていたのに何を言っているんだという感じだ。
 そもそも「見分けがつかない」というのはもう「被差別者と私たちは何も変わらない」という答えをすでに出している。でも、それに気づけない。言葉の意味を考えようとしていないからだ。自分で調べて、様々な情報に触れ、考えるということがどれほど重要なのかが分かる。

 ロージーが言った「出来ることをする」の「出来ること」は自分で考えることなのだと思う。周りに言われた情報だけを信じるのではなく、自分で調べて、自分の考えを持つ。ヘイトに流されず、自分の意思でそれを跳ね除けられるようになる。だから、「出来ること」の一番の近道は勉強をすることなのだ。なので私も「出来ること」をしよう。知識というのは武器であり防具であり、手に入れれば決して奪われないものなのだから。


 

 

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