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理想の恋人というグロテスクさ

  この前友人に映画「ルビースパークス」をオススメした。これを機に感想を書こうと思う。

  ルビースパークスは小説家の主人公が理想の女の子を書いてみたら、ある日突然現実にその子が現れた!という世にも奇妙な物語みたいな話だ。

  最初は理想の女の子が現れ、恋人になったことに浮かれまくりでこの世の春といった状況の主人公。でも自分が書いた理想の女の子は段々と成長していき、自分が書いた設定以外のことも表れてくる。
  それを不快に感じて、その度に書き直し、書き足し、修正を図っていくけれど、そうやってその子をコントロールしようとする主人公が私は醜悪に感じ始めた。その女の子が魅力的だからこそ。

  その子のことが主人公は好きなんだというけれど、自分にとって都合のいいところ以外を削ぎ落とさせて、自分にとって不快なところがない、御し易い人物にしたいって、その子のこと好き云々よりも、その子を感情を持った一個人として扱ってないじゃん。それが頂点に達するのがラストのほうのシーンなんだけど。

  恋愛以外にも言えるが、自分の都合の良い人間にさせようとして関係をつくるのはマトモな関係とは言えないと思う。とてもグロテスクだ。でも正直、人間関係はそうなりがちなものであると思う。

  例えば親子関係。基本的に親には「理想の子ども」というものがあるだろう。しかし自分の子どもとはいえど子どもは親にとって他者である。別の人間であるからこそ考え方だって異なるし嗜好も違う。それが自分の子へ顕著に表れ出したとき、親の行動は2つに別れると思う。それを受け入れて自分とは違う存在とする親と受け入れずに理想へ近づけるために矯正しようとする親だ。

  私の友人に後者の親をもった子がいる。その子は文章を書くことが得意で、とても自由で魅力的な考えを持っている。政治やジェンダーに関しての考え方もはっきりある。でもその子の両親はその子のそういうところは嫌だったらしい。「お前の考え方は変だ。間違っている」とさんざっぱら言われたと言っていた(私の友人をお前呼ばわりなど何様のつもりだ)。

  別に理解できなくても良いのだ。だって他者だし。自分とは別の人間なのだから理解できないところだって当然にある。ただ否定しなければ良い。それは他者に対しての最低限の礼儀だろう(殺人が正義とか言ってるなら話は別だが)。

  私もそうだが仲の良い人や恋人に対して「ここを直してくれればもっと好きになれるのに」と思ってしまうことはままあると思う。そしてそれが「なぜこれを直さないんだ!おかしいだろう!」にまで変化してしまうときがある。それは自分にとっての理想の人間をその人に強いるということだ。でもその人のそういうところが魅力的だと感じる人も当然いるのだ。

  公共の福祉に抵触するような箇所なら直すべきだと思うが、そうでないのなら自分の価値観が全くの正解というわけではないのだから、その人はその人と受け入れたい。どうしてもそこを直してもらわないと無理ならその人とは距離を置こう。だってその人はその人として存在している明確な個人であり、私にコントロールできるような権利など無いのだから。

  お互いを尊重する関係を目指していきたい。難しいけど。人間気を抜くとそういう関係に持って行こうとしてしまうから。

  ちなみに、ルビースパークスは女の子の衣装がすごく可愛いです。ピンクのカーディガンに緑のスカート合わせるのめちゃくちゃ可愛い。ファッションにも注目してほしい映画で〜す。


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