わたしのこと。
はじめまして。も ずっと読んでくださってる方(別ブログは10年になります)もこんにちは。
淑惠 -としえ-と申します。ちょっと漢字が難しいです。なので、作品や 作家紹介の表記は
TOSHIE. I 又はとしえ にしてあります。でもね、、旧姓(福ちゃん)がインパクトあったので。そちらの方が呼びやすいって方はかなり多いです。未だに年賀状は福ちゃんへ。と書いてる大人がいたりします。。
現在はプラバン 作家として活動しております。かなりやんちゃが過ぎる夫と結婚し、転勤族であちこち引っ越してます。ですので自宅で出来る今の仕事は自分にピッタリかと思ったりしなかったり。
さらにややこしいのは 、実家も引っ越し魔だったため、出身地と育った場所がてんでバラバラであります。まあ、良く言えば いろんな土地を知れて全国各地に知り合いがいる。そんな人生です。
ざっと自分の生まれた場所と職歴を書き出したいと思います。
———
•大阪府守口市生まれ •寝屋川市立第五中学校→千葉県市原市立国分寺台西中学校→市原市立緑高卒業→オリエンタルランド入社→同退社→セツ•モード•セミナー美術研究科(在学中は 居酒屋で準社員勤務、ファッションHPサイトスタイリングアシスタント、イラストレーター、水彩画のグループ展)
•専門卒業後は 家庭の事情により 家事と祖母の介護をしながら ビデオレンタル屋でアルバイト(ウェルカムボードや似顔絵、サッカーチームのユニフォーム等の製作)
•2012年〜再び大阪へ →2015年結婚 夫の名古屋転勤の為 愛知県内在住→地方でサービス業で就職は難しいため 創作活動再開→2015年秋からハンドメイドブランド-ROSA no.8-としてminne、creema で販売開始
——
長いし落ち着きが無いですね。専門学校に通っていた時代は、まさに不況真っ只中で。たとえ千葉の地元じゃ有名店でアルバイトから短期間でのし上がって準社員になったとしても、最低賃金で学費が支払えず。都内の高級レストランやダイニングバーで 派遣のバイトもしてました。
ですので、あの時は描くよりサービス業の方が得意でした。六本木、銀座、丸の内辺りで勤務すると自然に接客英語も覚えたりして。
今から思うと、安月給の居酒屋なんてサッサッと辞めてもうちょっと、高級レストランで働いてたらよかったと後悔してます。
下町の居酒屋が居心地良すぎたんですね。私の場合は、まさに「芸は身を肥やす」でした。
実家はボンビー過ぎて。両親は働きづめだったので。学生の時から実家に食費を納め。小さな妹、弟を育てあげ立派に就職させました。←ここは自分を褒めてあげたいな。
ですから 私は自分で産んだわけでも無いですが。一応、育児経験があるのですね。働きながら家事しながら育児をする大変さ。と言うものを経験してきました。私は10代〜20代前半で体力もあったし、こわいものなしでママ友づきあいとかもPTAとかも無かったから、世の中の働いて家事育児しているママさん達に比べたら。半分ぐらいでしょうか、、
そんな大変な生活を支えていたのは。音楽や絵を描くこと。あとサッカーが大好き(この話はまた別の機会に)
家の中がどんなにめちゃくちゃでも。絵描き仲間と会う時間。創作するということが自分を取り戻すこと。世界と繋がっていく手段。
生活する。暮らしていく。
普通にしていることが大変な世の中です。
絵を描いたり、音楽を聞いたり。スポーツができる。て気持ちに余裕が無いとなかなか出来ない。
けど、そこを忘れてしまったら。つまらないと思うのです。
将来の心配、売り上げの達成目標。子供の教育のこと、、ちょっとだけ忘れて。
「アート」と言うと ハードル高いので、、
ちょっとほっこり和むようなハンドメイドの作品に触れてほしいな。と
ハンドメイドを始めたのはそんな思いがあったんじゃ無いかな。と思います。
ほんとは、意味不明な現代アートをドカンと描いてN.Yで展示したい!
とか、
ファッションイラストレーターでパリコレに行きたい!
とか
若い時はそんな大きな大きな夢を追っていたのですが。無駄では無かったですね。
一所懸命やった結果。小さな世界だけど。
見ず知らずの人に。世の中の人に見てもらえる作品が作れているんだなぁ。
と これを書きながら色々と感情が込み上げてきましたよ。^_^