傑作・君たちはどう生きるかネタバレ感想~アート与太話エッセイ映画~
「君たちはどう生きるか」を見た。いや、浴びた。
いやはや「凄いものを見てしまった」と思ったのは何年ぶりだろうか。
「アニメーションの暴力」はたまた「脳筋アニメーション」と言うべきか。
とにかくアニメーションとは斯くあるべし……と言っても過言ではない。
しかし
「よく分からなかった」
「退屈だった」
と断ずる人の気持ちはよーーーーく分かる。
何しろ支離滅裂かつ展開も二転三転して何が何だか分からない。
オチも「え?終わり?」と思う人も多数いるだろう。
物語を咀嚼し意味を考えている暇もなく次から次へと提示される。
大変カロリーを消費する映画である。
なのでエンターテインメントとして……つまり我々が「観客」という前提で
この映画を見ると、膨大な情報量に面喰ってしまうのだ。
(鈴木敏夫が「冒険活劇」と言うから更に混乱してしまった。)
そんな訳で「アオサギは鈴木敏夫で~」「この13はこれまでの作品で~」「インコは群集のメタファーで〜」「これは神曲からの引用で〜」という考察は他の方が良質なものを山ほど出しているので是非ご覧頂きたい。
私の考察は他の方と被っているが、異なる見解も少々混じっているかと思う。
まあ「こういう考えもあるんだなー…」と大らかな気持ちで見て頂ければ有難い。
また、考察とは別の視点でも感想を書きたいと思う。
意外と分かりやすく配慮している映像
この映画「不親切すぎる」「観客に甘えている」「教養がある事が前提になっている」と言われる事も多いが、個人的には我々への配慮は散りばめられていると感じる。
一番分かりやすいのは老婆達が初めて出てくるシーンだ。
それまで戦時中の物語としてリアリティ溢れる映像が続いていたのに、突然妖怪のような不気味なモノが父親のトランクに群がっているのだ。
(本当にホラー映画が始まったのかと思った。)
それは妖怪ではなく老婆たちだった訳だが、(老婆は妖怪みたいなもんだという暗喩…という訳ではない…とは思う。多分)顔を見て更に驚愕した。
異様に頭が大きい。
皆、千と千尋の神隠しの湯婆婆を思い出しただろう。
しかし千と千尋の神隠しはファンタジー映画というジャンルだと最初から周知されてた上に「トンネルを抜けると不思議な町に出た」という過程と導入があるからこそ、湯婆婆などのファンタジーなキャラクターが出てもすんなり受け入れられるのだ。
だが君たちは~は違う。日常から急に異質なものが出現したのだ。
先の見えない暗く長い廊下(これが非常に不気味)、異様に青い鮮やかなアオサギ(現実とファンタジーの橋渡し)が眞人の上を掠める…という不穏な流れが続いた上での老婆登場だったので、本当に心臓が止まるかと思った。
そしてこの老婆達の出現は「この映画は奇妙でヘンテコなファンタジー作品ですよ」と教えてくれる配慮あるシーンとキャラクターなのだと思う。
これによっては私は「なるほど。ファンタジーが始まるのね。」と脳の切り替えを行えた訳だ。
情報が無い中でこのシーンは大変配慮されたものだと感じたし、映画を観る上での補助線を引いてくれた。
ヒミの衣装はどう見ても不思議の国のアリスだし、ペリカンがここは地獄と教えてくれ、最後には蓮の花が咲き萎む極楽へと辿り着く。
このように宮崎駿は我々にかなり配慮をしてくれていると感じた。
しかしこう言われるのだ。
「映画ならば誰にでも分かるように作るべき」と。
でも私は思う。
「老若男女、年寄りから子供まで分かるエンターテインメント映画。」
「もうそれは十分やったじゃないか。」
「齢80過ぎの爺さんが我々にボーナスステージを作ってくれたんだ。」
「最後に好きなようにやらせてやろうぜ。」
と。
風立ちぬもそうだったが「分かる人に分かれば良い。その代わり胸を張って良いものを作る。」という気持ちで作成したのだと個人的には思うのだ。
大事な点は「宮崎駿は十分我々に分かるよう配慮してくれていた。独りよがりではなく、配慮無く作ったのではない。」という事実だ。
形はどうであれ、彼はサービス精神溢れる男なのだ。
考察・石で自傷した眞人について(宮崎駿の生い立ち視点から)
前半、眞人が少年達と喧嘩後、石でこめかみを傷付けるシーンがある。
その傷を終盤で眞人は「僕の悪意」と評した。
「親に気にかけて欲しかった」
「学校に行かないようにしたかった」
他人への悪意。それが眞人の悪意である。
だが果たしてそれだけだろうか。
これは宮崎駿の生い立ちに触れないといけない。
彼は航空機製作所の息子で戦時中でもそこそこ裕福な家庭で育った。
他の考察で散々言われているが、眞人は宮崎駿自身のメタファーである。(とは言え後半は宮崎駿の手を離れたので正確には違うと思う。だからこそ映画がよりややこしく見えるのだ)
こちらの記事から本人の発言によると
「ずっと自分が避けてきたこと、自分のことをやるしかない」
との事だったので間違いない。
https://book.asahi.com/article/14953353
という事は。
「何故人の幸せは平等ではないのかという疑問」
「戦争が嫌いなのに、それでご飯を食べるという矛盾」
「自分だけが裕福で他人が苦労を強いられているという現実への憤り」
この思想も組み込まなければならない。
眞人は真実の人……と作中では言われているが、恐らくこの意味も含まれている。
「真っ当な人間」
宮崎駿がよく言う言葉だ。
戦時中、疎開先で皆が大変な状況……老婆達が缶詰を喜び「ある所にはあるんだねぇ」と言うような時代に、学校に車で乗りつけて農作業もせずに帰宅出来るような状況を、果たして彼は、人は、享受出来るだろうか。
それを「こんなの間違っている!」と反発も出来ず、何も変えず、鬱屈した気持ちを抱えたまま過す事を良しとするだろうか。
その憤りを他人にぶつけ暴力で発散する矮小な自分について何も思わないだろうか。
そしてこんな気持ちを……「辛い。苦しい。助けて。」と親に言えない自分自身をどう思うだろうか。
そんな自分が許せない。
自分は罰せられるべきだ。
自己否定と自己嫌悪。
少なくとも宮崎駿は許さないだろう。
「自分への悪意」
そんな解釈も出来るのではないかと思う。
考察・夏子の大嫌いについて(母親である私視点から)
自傷行為をした眞人は親からの言葉を求めていた筈だ。
しかし実の父親からは「誰にやられたんだ」「仇は取るから安心しろ」と言われる。
きっと眞人は自分を慰め労ってくれる言葉を求めていただろう。
父親からはそのような言葉をかけてくれなかった。
しかし継母である夏子……他人である彼女からは「ごめんなさい。私のせいね」と眞人の気持ちに寄り添うような言葉をかけてくれたのだ。
彼はどれだけそれに救われた事だろう。
それでも彼はまだ彼女を母親とは認められない。
そんな時に母の「眞人へ」という言葉と共に「君はどう生きるか」を見つける。
それは母の「遺言」だ。
母が何を自分に伝えたかったのか。眞人は小説を読みだす。
そして一刻が経ち、読み進める眞人から涙が零れる。
私は恥ずかしながら小説を読んでおらず、あらすじ程度しか知らないので、深い考察は出来ないのだが(機会を作って読みたいと思う)きっと眞人は小説を通して母と対話するような感覚になっていた事だろう。
小説読み、眞人は己の考えに道標が出来、夏子に対して心境の変化があった事だろう。
しかし人は急には変われない。
あなたの母親?と聞かれても眞人は「父さんの好きな人」と、しきりに答える。
それをキリコは「お前嘘つきだな」と断ずる。
自分の気持ちに素直になれないのだ。
さて、そんな眞人の声で夏子は目覚める。
何とか眞人に母親と認めて欲しかった夏子である。
彼の事は本当の息子と思って接していたであろう。
そんな眞人が死ぬかもしれない危険な場所へ自分を助けに来たのだ。
夏子母さんと呼んでくれているのだ。
彼女はみるみる鬼の形相へ変化する。
「何で来たの!早く帰りなさい!」
例えるなら、子供が自分を心配して断崖絶壁の岬へ来るようなものだ。
そんな状況であれば、母親なら誰しもそう言うだろう。
しかし眞人は一歩も引かない。
この子は自分を助けなければ帰ってくれない。
助ける価値が無いと思ってくれれば帰ってくれる筈。
嫌われても良いから生きて帰ってほしい。
だからこその
「アンタなんか大っ嫌い!!」
なのではなかろうか。
正直、私が夏子の立場であってもそう言うだろう。
アレが夏子の本音という考察が目立つが、子供を産んだ私の解釈は違った。
愛故の「大嫌い」だと思ったのだ。
アオサギは誰なのか。
アオサギのモデルは鈴木敏夫と言われているが、正直様々な人物を複合してデザインしたキャラクターだと個人的には思う。
眞人を誘い出す……もっと言うと唆す様子や文句を言いつつも共同作業をする様子は鈴木敏夫に思える。
だが異様に大きな鼻は手塚治虫のキャラクターそのものだ。そもそもファンタジー世界へ……漫画やアニメの世界に誘ったのは他でもない手塚治虫だ。
しかし私はアオサギは「宮崎駿自身」も含まれているのでは無いかと思う。
「お前たちソックリだよ」とはキリコの弁だ。
正直私は最初、アオサギの声は眞人自身が作り出した声だと思っていた。
これだけ優しくしてくれている夏子や環境に慣れなければならないのに心は寂しくて溜まらない。
そんな「本音」をアオサギが言ったのではないか。
だからこそ、眞人はアオサギに図星をつかれて激昂し、倒そうとしたのではないか。
池で魚が暴れだし蛙が這い寄る情景は眞人の心理描写だと思っている。
トンネルをくぐり、城の中(ファンタジーへの入り口)に入った事により、アオサギは現実とファンタジーを繋ぐ役目「キャラクター」になったのだと思う。
それにしてもアオサギは不気味ではあるものの、対話を続けたり恐れたりするのではなく、倒す事に執着する様子はなかなかホラーではあった。
ただ、ラスト、苦楽を共にし冒険を成し遂げたアオサギが「あばよ。友達」と言ったのには涙した。
色々書いたが、やはりアオサギは鈴木敏夫の側面が大きいかと思う。
眞人に声をかけファンタジーの世界へ連れ出したアオサギ。
宮崎駿に声をかけ、アニメーション映画という世界へ共に歩んだ鈴木敏夫。
眞人が宮崎駿である以上、共に旅を続けた「友達」は鈴木敏夫なのだ。
「あばよ。友達」
それは宮崎駿から鈴木敏夫に対する感謝の言葉なのでは無いだろうか。
そう読み取ってしまった私は二人のこれまでの歴史と絆を思い、劇場で涙したのであった。(因みに今も泣いてる)
宮崎駿と鈴木敏夫の絆は以下の記事で読み取れる。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230706/k10014119971000.html
>「(前略)僕だって、宮崎駿に捧げた青春というのがある。彼が引退したら取り戻そうと思っていたのに、また奪おうっていうことでしょう」
>「日曜日の夜にようやく読んだら、結構面白いんですよ。夜12時を回ってからもう一回読んでみたら、やっぱり面白い。でも悩んだ結果、心を鬼にして、“つまんない”って言おうと決めました。(後略)」
>「そんなことを思い出しながら会社に向かう車で一生懸命“つまんないです”の言い方の練習をして、心を強くして彼のアトリエに向かう。今日はだまされちゃだめだ。俺の青春を取り戻さなきゃいけないんだ!って。そして彼のアトリエのドアを開けようとしたら、向こうから開いたんですよ」
>「待ってたんですよ!そしてひと言、『コーヒー飲む?』って。ミヤさんがコーヒーをいれている間、『コーヒー飲む?』って言葉を翻訳しちゃったんです。『どうしても作りたい。失敗するかもしれないけれど、機会を与えてほしい。そして手伝ってほしい』ってね。そしてミヤさんがコーヒーを持って現れて、僕の前に置いた瞬間。僕は『やりますか』って言ったんです」
宮崎駿と鈴木敏夫の悲喜交々は様々な媒体や動画で見れるので、良ければ色々検索してみると良いだろう。もっと今作が面白く感じるので機会があれば是非見て頂きたい。
宮崎駿と高畑勲。眞人とキリコ。
さて「キリコは高畑勲だ!」という考察が多いが……私もそう思う。(正確には大塚康生とか色々関わってきた人の集合体のような気がする)
何というか部屋がハイジっぽい。生活感に溢れている。(言語化不可能)
パンを切ってバターを切って……ってまんまハイジのオマージュである。
因みにドキュメンタリー映画「夢と狂気の王国」(こちらも良い映画だ)で宮崎駿は「パクさん(高畑勲)の最高傑作はハイジですよ」と言っている。
総監督を務めた高畑勲と制作したハイジは宮崎駿にとっても思い入れの深いものだろう。
(余談だが、アルプスの少女ハイジで宮崎駿が画面構成を務めただけに、そのレイアウトの高さといったら……今見ても色褪せない名作なので、是非全話通して見て頂きたい)
宮崎駿は高畑勲に対して尊敬と愛と敬意と憎しみと……まあとにかく心酔というか、氏の弔辞の言葉を借りると「得難い人」だった。
https://www.cinematoday.jp/news/N0100819
>「パクさん、タバコをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」これは鈴木さん。弁解やら反論が、怒濤のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」 パクさんはキッパリ言って、頭を下げた。そして本当にパクさんは、タバコをやめてしまった。僕は、わざとパクさんのそばへ、タバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。
……このエピソードが全てだと思う。
さて「魚を捌くのは〜」等という考察は皆様にお任せして、キリコのお守りについて触れておきたい。
眞人が旅立つ際にキリコは年老いた自分の人形を「お守り」と言って渡す。
前述の事を踏まえると、感慨深い物がある。
それぞれの道は違えど、宮崎駿は高畑勲がずっと傍にいて守ってくれている……と思っているという事なのではないだろうか。
ずっとずっと、彼らの志は一つだったのではないだろうか。
未だに恋焦がれていると思うと、そのいじらしさに泣けてくる。
キリコは高畑勲。
という事は、わらわらとペリカンにも繋がっていくのだ。
宮崎駿とジブリとアニメーター。ペリカンとわらわら。
「終わったんだなと本当に思うんだよ」
「いや、後継者を育てたよ」
「後継者育ててやらせると結局食べちゃうことになるんですよ」
「その人たちの才能を食べちゃう」
「『こいつにやらせてみたい』っていう人間は一人もいなくなった」
「スタジオは人を食べていくんですよ」
「それが宿命だからね」
「まあ食べたよ」
「それでおしまいになっちゃったから何の未練もないんだよ」
以上は「終わらない人 宮崎駿」からの引用である。
勿論、命の輪廻、螺旋を表現しているのは間違いはない。
人間は清らかな一方で、残酷で腸を食べないと生きていけないような生物だ。
ただ、前述の発言を踏まえると、わらわらは多くのアニメーター達、ペリカンはアニメスタジオと解釈する事も出来る。
では魚はなんなんだ?地獄に連れてこられたってどういう事?アニメの現場は地獄って事?となるので違うとは思う。
ただ、ペリカンも宮崎駿の分身なような気がしてならない。
監督とは孤独な仕事だ。
どれだけ仲が良くてもリテイクを出さなければならない時はガツンと言わなければならない。
彼ら彼女が身を削って休日返上で睡眠時間2時間で作業をしている事を知っていても「一からやり直して下さい」と言わなければならない。
だから友達が減る。仲間がいなくなる。
大作であるほど何年も時間がかかる。
スタッフの数年を監督の為に費やす事になる。
青春時代を、人生の豊かな時間を、監督が作りたい映画の為に捧げて貰う事になる。
だから長編映画は生半可な気持ちで出来ない。
皆の人生を背負って作っている。
背中にドスを突きつけられながら作っている。
食べたい訳では無かった。
そんなペリカンをわざわざ埋葬するのにはきっと意味があるのだろう。
監督・宮崎駿の願い
大叔父も宮崎駿本人……という考察や感想は山程あるので皆様色々な感想や考察を読んでみてほしい。
しかし大叔父が宮崎駿ならば、最後ヒミに「ありがとう」と言わせたのはどういう事だろうか。
自分は感謝されるような人間ではないと宮崎駿自身は思っているだろうから違和感がある。
何となく大叔父は「宮崎駿」と「アニメそのもの」の具現化のような気もする。
さて、私なりに、この映画に込められたメッセージを読み解きたい。
ジブリの後継者。息子や弟子筋や関係者が継ぐ必要はない。
そもそもジブリが無くなっても問題無い。
石とお守りを持った眞人……つまり宮崎駿作品を観てきたアニメーターや観客。
彼らは、観客は、自分がいなくなれば少しずつ忘れてしまうだろう。それで良い。
自分の(宮崎駿)の作品やアニメそのもの(石)が、皆の心に少しだけ残れば本望。
それを糧にしてくれるのであればもっと嬉しい。
ジブリの世界から鳥のように羽ばたいて欲しい。現実を生きて欲しい。
それを聞いて眞人は……我々はどう思っただろうか。
ラストシーン。
勇気を貰い、少しだけ前に踏み出せた切っ掛けを作った「君たちはどう生きるか」を鞄に詰める。心の中に詰める。
眞人が覚えているかいないか。
それは彼にしか分からないし、さして重要では無いかもしれない。
確かな事は、彼は思い出を力に変えて前進したという事だ。
僕は東京へ戻った。
我々は現実へ戻った。
そして眞人と我々の現実は続くのだ。
人生は続くのだ。
全てを総括するのはまだまだ先の話なのだ。
考えるのを辞めるな。
苦しくて藻掻くかもしれない。
この世界はファンタジーなんかじゃない。
辛い事の方が多いし、悪意に満ちているような世界かもしれない。
それでも世界には空がある。太陽がある。
どこへだって行ける。飛び立てる。
だから人生は面白い。
だから世界は面白い。
この世は生きるに値する。
それがどうした~アニメーションとは~
と、ここまで考察してきたが、私は思う。
そ れ が ど う し た
と。
我々は見たのだ。アニメーションとは如何なるものなのかを。
冒頭の火事の中走り回る表現はどうだ。
モブが揺らめき人の形を成してない様、子供の視点から見た情景と疾走感と焦燥感の表現はどうだ。
今の日本でアレを作れる人間がどれだけいるのか。
人力車に乗った時に体重で軋んでいく様子はどうだ。
胎動を感じた時の眞人の嫌悪の顔はどうだ。
魚が跳ね、蛙が這い死臭が漂う空気感はどうだ。
全体を通して常に死の香りが漂う色彩と画面構成と背景はどうだ。
臓物を気持ち悪いと思うほどリアルに書き上げる様子はどうだ。
わらわらが天に昇る様子、夏子の子供を叱る時の鬼の形相はどうだ。
全てを盛り上げ寄り添う音楽と効果音はどうだ。
ラテン語で霊魂を意味するAnima(アニマ)
生命のない動かないものに命を与えて動かすこと。
アニメーションの語源だ。
絵が動くからアニメーションではない。
命を吹き込むからアニメーションなのだ。
圧倒的な想像力と美しさとエネルギーを浴びた私は暫く椅子から立つ事が出来なかった。
観たのではなく「浴びた」のだ。
涙がポロポロと溢れた。
僥倖だ。
このようなレベルのアニメを生きている内に観れた事。
この作品を情報無しで映画館で観れた事。
宮崎駿という才能が生きている時代に私も生きているという事。
もう一度長編アニメを作ってくれた事。
アニメを信じてきた事。
何も考えずとも、スクリーンに映し出される美学に圧倒され、何と素晴らしいカットなのだろうと何度も思った。
勿論「宮崎駿が手を入れたらココはもっと良くなったかもしれない」「保田道世さん(やっちん)が生きていたらもっと鮮やかだったかもしれない」など言い出したらキリは無い。
だから「動きが違うから宮崎駿の映画じゃない」という人の意見は正しいかもしれない。
実際、私もそう思ったシーンはあった。
でも、敢えて言いたい。
だからなんだ。
アニメメーションは素晴らしい。
それだけだ。
もう一度観たい。
あのシーンをもう一度観たい。
それだけなんだ。
だからアニメは面白い。
これは一人の老人のアートとエッセイと与太話の映画
結局、この映画はアニメーションを使ったアート作品であった。
如何様にも見れるし、一つの画面で様々な事を考えさせられる。
だからこそ「なんじゃこりゃ。よく分からん」となるのも無理は無いのだ。
大衆に分かりやすく描いていないからだ。
ゲルニカを見て全ての人が絶賛する訳でも無いし、ゲルニカが分からない人が無能な訳ではない。好みの問題なのだ。
そしてこの映画はエッセイと空想の映画でもある。
「俺こういうグジグジした人間だったんだよ」
「この小説本当に面白かったんだよ」
「やっぱ女性はこういう人が良いよねぇ」
「こういう画面が好きなんだよね」
「だから昔こういう映画を作ったんだよ」
のオンパレードなのだ。
(しかし母性の強い女性を突き詰めて『母親が幼女』というキャラを産み出したのは天才としか言い様がない)
この映画は、映画と思って観てはいけない。
だってこれは、居酒屋で爺さんが「俺昔こんなんでよォ。こういう女が好きでよォ」と話しているようなものなんだから。
それを「へぇナルホド」と聞くも良し。
「それでどうなったんです?」と興味を持つも良し。
爺さんの与太話なんて聞きたくない!と思うも良し。
正解なんて無い。貴方の心に残った感情が全てだ。
だってこれは(敢えてこう書く。)タダの与太話なんだから。
だから話は最初に戻る。この映画は「観客」と思って見てはいけないのだ。
ただ我々は爺さんと一緒にいるだけの「人間」なのだから。
宮崎駿はこの映画を「自分でもよく分からない」と言った。
当然だ。自分の人生なんてよく分からないんだから。
まだ生きているんだから。
「長編映画は生半可な気持ちじゃ作れない。皆に迷惑をかける事になる。」
と言いながら、それでもやり残した「自分の事」を映画にしてくれた宮崎駿監督に感謝を言いたい。
「もう一本作れば良いのに」と言っていたやっちん事、保田道世さんも喜んでいるだろう。
そして、老いたからこそ出来た映画をよく作って頂いた。
70後半になってから大仕事をやるのは相当な覚悟と体力と精神力が必要だっただろう。
もう力が入らない、震えた線を見る度に様々な想いが去来する。
80歳を過ぎてこのような仕事が出来る人が世の中に何人いるのだろうか。
あと、これはただの感想。
ヒミが「眞人に会えるんだもん」と自分が死にに行く扉を開けた瞬間、子を持つ私は号泣した。
そうなんだよ。子供に会えるなら、もう一度苦しい人生を選択するよ。そういうもんだよ。
多分、若い頃の宮崎駿なら書けなかったんじゃないかなぁ。
まあ、もう「セキセイインコ好きな私得でした」とか「原発いらなインコ思い出した」とか言ったらキリが無いのでこの辺で終わろうと思う。
最後に。
映画を見終わって思い出した事。
宮崎駿はいつも自分の事をこう言うのだ。
「ぼくらアニメーターは……」
そして思った。
ジブリを見て育って良かった。