【超ネタバレ注意】君たちはどう生きるか 雑記【執筆:のり】

読み苦しい駄文ですが、まだ1度しか見ておらず、興奮冷めやらぬ中での執筆ですので、ぜひご容赦ください。追記・再編する可能性大いに有り。

観た人は分かるだろうが、「君たちはどう生きるか」は宮﨑駿の自伝映画である。セルフオマージュの多用まで含めると、やはり「シン・宮崎駿」であると述べるのが適切だと思う。ゴジラ、ウルトラ、ライダーではなく、エヴァの方の「シン・」だ。
零戦の風防が出てきたときなどはさすがに呆れてしまった。ここまでやるのか、と。宮﨑駿の実家は、零戦の風防を作る軍需工場だったらしい。

この映画を観る際は、「これは宮﨑駿の人生において、何の比喩なんだろう」という視点で観ることをお勧めする…というか、他に考案の余地がない。宮﨑駿の人生以外の何物でもないのだから。
ただ、せっかく見た人ごとに開かれている映画の解釈を変に狭めてしまうのは本意ではないので、以下に語り散らかす駄文は一個人の意見として流し見てください。

さて、冒頭からいきなりすさまじいアニメーションを見せつけられる。
火事のシーンだ。群衆の顔はテラテラと炎を反射しつつも、眞人の目にはぐにゃりと歪んで見える。顔に血が上り、周囲の怒号も籠って遠くなる。
これが、宮﨑駿の最も得意とする「感覚の映像化」だ。
宮﨑駿は昔、母がずっと入院していたせいで母親の愛情を欠いて育った。そういったコンプレックスも随所にみられる。

陰鬱な少年、溶け込めぬ新たな家庭の中でも母を渇望してしまう少年。「被害者」となるために自らの頭に傷をつける。宮﨑も過ごしてきた思春期男子特有のリアルな暗い雰囲気が、しっとりしたファンタジーの展開を匂わせる…が、そうはならなかった。
眞人(宮﨑駿)はアオサギ(鈴木敏夫)に言葉巧みに釣り出され、アニメの世界、すなわち宮﨑駿がこれまで描いてきた「宮﨑ワールド」やら、アニメ業界やら、そういった比喩を総括した異界へと落っこちてくる。過去の作品群のオマージュ(というか、今までの作品が全てこの宮﨑脳内世界のオマージュ)や類似点が多々見られるのは、ここが宮﨑駿の脳内の空想世界そのものだからだ。この世界では、現実で満足に触れ合えなかった母にも会える。

余談だが、今作では久々にギャグシーンがあった。アオサギの穴をふさぐ場面だ。ギャグシーンがあることは見た目以上に重要で、生前の高畑勲がよく「宮﨑駿のアニメにはギャグが無く、のめり込む一方で批判的立場に立てない」ということを言っていたことを受けていると思われる。

ペリカンは大人、もっと言えばアニメ業界に関連のない大人一般である。
ワラワラ=子供たちを食い物にしないと、生きていけない。そういう残酷な運命にある存在として、ペリカンは描かれる。そういう大人たちを追い払ってくれるのが、母=ヒミなのだ。眞人は老いたペリカンが自らの醜さを嘆くのを見て、その手で埋葬する。

眞人が世界に足を踏み入れる時、「学べば死ぬ」金の門から入場してやろう、という大人たちに揉まれて破ってしまう構図があったわけだ。彼らはインコではなく、ペリカンなのだ。
さて、文言の意味だが、学ぶと死ぬ、というよりも、「真似るだけでは死ぬ。死ぬ気で学べ」というものだ。似我者生・象我者死。
アニメに殉じていった人たちの墓の陰では、暗闇がうごめいている。アニメ界の「入口すぐそば」に、大きな墓があるのがミソだ。

大叔父は、高畑勲である。当然だろう。宮﨑駿が何かを受け継いだ師がいるならば、他にありえない。宮﨑は自分こそが高畑の正当な後継者であると高らかに描く。
高畑勲も宮﨑駿も、監督作が13作ある。※パンダコパンダは1カウント
これが「13個の積み木」だ。この積み木で、高畑と宮﨑はアニメの世界を作った!というわけだ。
石は「大人の都合」。本来子供の遊び道具である積み木(アニメは子供の物だ、という宮﨑の常套句がある)は、実は石すなわち大人の都合でできており、悪意に満ちている。母と自分を阻むのも、石。
これに加えて、眞人と大叔父、すなわち宮﨑と高畑は、13個の積み木を「最も悪意のない積み木」としているわけだ。自分の作品は、有象無象の、冷たい悪意を孕んだ積み木とは違うということだろうか。

さて、最終的にはインコの王様が積み木をめちゃくちゃに崩し、世界を壊してしまう。わけだが…アニメ界をめちゃくちゃにしてしまったこのインコたちは一体何者だろうか。
自分の解釈で言えば、インコはアニメ業界人の比喩だ。高畑勲の切り拓いたアニメ界で、好き勝手に帝国を築き上げているのである。少なくとも、宮﨑駿にはそう見えているのだ。
インコたちは宮﨑ワールドにいる間は知性を持ち、文明を持っている。そして、眞人(宮﨑)たちを食べようと試みるわけだ。しかし、インコたちは現実世界に帰った(高畑・宮﨑の作る世界から離れた)途端、ただのインコに退化してしまう。さてさて、宮﨑駿がクリエイターたちをどう思っているかよくわかる。

最終盤、大叔父→宮﨑、眞人→「君たち」「ありし日の宮﨑」に役割がすり替わる。と、考えられる。あるいは宮﨑の実際の心情が「自分はもはやアニメ界と関連が無い」というものだったのかもしれないが。
ともかく、眞人は結局、積み木遊びをすることは断る。崩壊したアニメの世界から現実に帰還した眞人は鳥(大人)たちの糞尿にまみれてでも、現実世界を生きていくことを決意する。

これが俺の人生だ、というわけである。
「オレはこう生きた。さて、君たちはどう生きるか」

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