黙祷-3
8月15日 終戦の日。終戦記念日、敗戦の日と仰る方もいらっしゃいますね。しばしば、どの呼び方が相応しいのか。と言う様な議論も見掛けますが人によって捉え方が違うと思いますし、やはり私達の心に深く刻まれている日だからこそ、この日の表現は悩む所なのかもしれません。
8月は日航機墜落事故の月でもあり、上手く表現出来ませんが、命の重さについて否応なしに考えされられます。
そして毎年、8月15日は亡き祖母(母方の祖母)の事を思い浮かべます。祖母は満州から引き揚げ者です。私の母は父(私から見れば祖父)を早くに亡くしていますので、祖母は女手一つで兄妹4人を育て上げました。
長男(私から見れば叔父)を大学に進学させ、長女(母)も高校まで進学させています。あの時代ですから(今の時代だって大変)中学校すらロクに通えない子ども達が多かったそうです。本日は、ど根性魂で戦中・戦後を駆け抜けた祖母のお話です。
私の母は引き揚げ中の列車の中で産まれました。祖父は出兵中。祖母は背中に叔父をおぶり、お腹の中には母を身ごもっていました。いつ殺されてもおかしくない状況でした。満州には親切な中国人の方がいらっしゃり、
「親子3人で帰国は到底無理だ。途中で殺される。子どもは(兄)預かってあげるから。」と気遣ってくれたそうです。
しかし祖母は「親子3人で日本へ帰ります。途中で殺されたらそれは運命です。」という様な事を言い残し、満州から博多を目指して命がけの引き揚げが始まります。
引き揚げの最中、栄養失調で亡くなる。もう歩く事が難しいと判断されればその場で殺される。当然、赤ん坊や子どもは泣きますから、親が絞殺したり刃物で首を切ったりすると言う、想像も付かない様な光景があったそうです。我が子を手にかける親の心境。辛いなんてもんでは無かっただろうな…。他にも強姦など正に地獄絵図。戦争を知らない私ですが、恐怖を感じながらこの記事を書いています。
そして、母と叔父は何故か一回も泣かなかったそうです。だから何とか帰還出来たのかもしれません。祖母は博多に到着した時に、ああ終戦だ…。と実感し泣いたそうです。
戦後、妹二人(叔母)が産まれるも、夫を亡くした祖母は小料理屋で給仕をしたりしながら、子ども4人を育て上げました。食事作りや妹二人の面倒は母が見たそうです。当然、極貧生活だったそうですが、母は高校を卒業すると同時に上京し、東京の会社に就職。母はあまり過去の話をしたがらないので詳細はよく知らないのですが、地方で父と出会い結婚。私が産まれました。その頃には祖母も上京しており、思い出の写真が沢山残っています。
祖母は私が2歳の時に天に召されたのですが、棺の中で眠っている顔は今でもかなりはっきりと憶えています。とても安らかな表情をしていました。
年々、母が祖母に似てきました。そして私は母が私を産んだ年齢になり、その頃の母に似てきています。ずっと父親似と言われ続けていましたが、私の顔の系統は母なんだなあ。と、何だかしみじみです。
祖母が満州から帰還していなければ、私はこの世に生を受けてはおらず、こうしてnoteを書いたり、好きな音楽を聴いたり、お仕事の事で悩んだりする事は出来なかったのです。生きていると辛い事や試練ばかりが続いて、嫌になる事もありますが、私の生は祖母が命を懸けて繋いでくれたものなのだ。と思うと、生きていかねば。そして、人生を謳歌するチャンスをくれた祖母にこれからも感謝をしていこう。と心に誓う日でもある事から、8月15日は特別な一日です。
現在も地球のどこかで紛争が続いています。決して他人事では無いんだ。暴力はいつもすぐ側にあるんだ。そして、犠牲となるのは一般市民の方々。兵隊に駆り出された方々だって犠牲者。一部の権力者の欲望に巻き込まれて、人生を失う悲しみ。
戦争だけはやっちゃいけない。
表題の画像は、去年行った都庁の展望台からの景色です。75年前の焼け野原からは想像も出来ない様な東京の景色。コロナが落ち着いたら、また行こうと思います。
焼跡の灰の中から強く高く飛び立った
落ちてゆく夕日めがけ西の空を見上げて
by:浜田 省吾さん「RISING SUN(風の勲章)」
サポート下さると、本当に嬉しいです!😊 もちろんクリエイティブスキルを上げるために使わせていただきます!