船橋無線塔記念碑に朝鮮人虐殺は何故、記されなかったのか②
私が滝口昭二氏の著作「真珠湾攻撃の電文を送った無線塔ー行田無線物語」からおもに探りたかったのは、1923年9月1日に起きた関東大震災の震災発生を全国に発信したのは当時、東葛飾郡塚田村大字行田新田(現・船橋市行田)に1915年に建造されていた船橋海軍無線所からですが、1923年9月2日に当時の内務省警保局が作成し公文書となった朝鮮の人たちに対する流言飛語のデマ文も、この無線所から各地方長官宛に出されたことは事実です。
この事は以前からも社民党の福島みずほ参議院議員も公文書を国会で取り上げていて、政府を追及されていますが、政府は「記録が見当たらない」の一点張りで、この事は、過去においても立憲の杉尾議員なども同様に追及されています。
そして、滝口昭二氏の著作の中にも同様の文章が記されているのですが、滝口氏は政府擁護とも思われる、船橋無線所からの発信を「送信所からの電波はラジオではないので一般人は聞く事はできず、各官憲や新聞社に限り、知る事はできない」と著作で書かれています。しかも、朝鮮人虐殺については目録で「諸説」と記されていて、「諸説」とは「いろいろな説・意見、または、うわさ。」としてあり、書かれてあることは真意ではないとした上で船橋での朝鮮人虐殺など含めた記載についてはかなり、詳細に書かれているにも関わらず著作の意図が日本の軍事的な色が濃く、私は読むに絶えないというか、あるいは無線塔の記念碑についても擁護の形をとってあり、記念碑が平和の目的ではなく軍事色が濃く、以前に何度も書いたように船橋は軍都としての習志野に諂う兵站の街を引きづっていることが、良く伺えるということです。それはこの著作の末尾あたりに書かれてある、記念碑建設についての概要や除幕式など諸々の記事を読めばわかるのですが、日本海軍元関係者やロータリークラブ、ライオンズクラブなどが関係していて、記念碑に朝鮮人虐殺については触れたくないのが色濃く解るからです。
また、真珠湾攻撃を発信したニイタカヤマノボレについての発信も船橋からではなく、広島県の呉からだと主張されているのも私は不思議と考えています。なぜなら、中波、短波の電波を強力に出すことができたのは船橋送信所からだったからです。そして、これを読んでおられる方はご存知かどうかわかりませんが、日本の受信機としては太平洋戦争時にはすでにスーパーヘテロダインも開発されていて、戦闘機は0Ⅴ1か2であったに関わらずかなり高性能であつたことも知られています。
なお、滝口氏の電子著作には末尾に転載厳禁とされているので、読みたい方はアマゾンから800円で購入できます。尚、私は通読してうんざり辟易しています。このような軍事色の濃い、船橋市からは早く去り。郷里に戻りたい心境です。