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原発死


 「原発死」という松本直治氏が書かれたノンフィクションの著作本が私の手元にもある。そして、主な内容は彼の子息だった松本勝信氏が北陸電力の社員で、北陸電力が、まだ、原子力発電に本格的に足を踏み入れていない頃で原発開発の安全性を高めるために日本原子力発電(原電)の東海や敦賀原発に出向させらて、管理区域内で被ばくさせられ、舌ガンに冒されて亡くなる直前の末期にはガン細胞が全身に転移し、勝信氏は病院のベットで頭を搔きむしる症状に対して医師は「頭蓋骨が壊れていくのです」と父の直治氏に告げられた後に勝信氏は息を引き取られるのです。
 さて、今日は、亡くなられた勝信氏の父の松本直治氏が千葉の病院で子息のことで病院にてガンの告知を受けられた後、東京に本社がある、日本原電に抗議に出向かれ、原電の総務部長との議論の内容を本著作から引用してみたいと思います。
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               第三章 【原子力発電所の実態】(109頁~
          (一 原発本社を訪ねて
 勝信を千葉大に見舞った翌朝、私は東京駅に来た。夥しい人の群れがゆれるようだったが、その中に混じって構外に出た。眩しい陽光が舗道に散っている。その陽光もビルの谷間に入ると、急に薄暮が迫って来たような錯覚を覚える。大手町界隈は相変わらずくるまの洪水だが、動きが鈍いのは信号待ちですぐストップしてしまうからである。歩いた方がよほど速いのに、どうも近ごろの日本人は無暗とくるまに乗りたがる人種になってしまっている。莫迦な奴らだ。
 舗道を歩きながら、私の足は併行して走っているくるまを何台も追い越していた。ざまあ見ろである。それにしても似たようなビルが横縦に、どこまでも続いている。
 青い空、青い海、その広がりがどこまでも続く東海村の原発周辺の静まりかえった周辺から見ると、この雑路はまるで別天地である。しかし、この雑路の中には放射線被曝という恐怖はない。あるのは交通地獄だけである。それにしても、私が心の中でいい知れない、いらだちを強く感ずるのはなぜだろうか。やはり脳裏に、息子の被曝が焼き付くように離れられないものになってしまっているからであろう。
 だいたい、私は、ゆっくりとまるで散策でもするように街を歩くのがいつもの癖である。それが、まるで何かに追いつかれるように歩を知らず知らず早めているのは原発の巨魁に向かって激しい激怒の感情が先走っているせいである。落ち着け、落ち着け。
 思わず口に出たが、それは騒音に吹き消され、いらだちだけが少しも解けなかった。右を見ても左を見ても、同じビルがどこまでも林立して建っている。まさしくビルの谷間である。厄介だな、探しあてるということは。
 どちらかと言えば、私は方向音痴の方であった。ようやく目的のビルを見つけると、すぐ入らずに、玄関脇でポケットから煙草を探し出すとライターをすった。二本吸い終わるまで、どういうふうに話しを切り出したものかと考えていた。舗道の人の流れ、くるまの洪水は相変わらずである。
 私はふたたび巨大なビルを見上げた。大手町ビルと書いてある。このビルの街で、その町の名をとってつけただけの値打ちはありそうだと、聳え立つビルにある感慨を覚えた。ーこれが原発の総本山というわけか。
(つづく
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 この続きは明日になりますが、この著書の序文として、井伏鱒二氏が書いていますが、松本直治氏と井伏鱒二氏は戦友であり、マレー会という会合でも交流を重ね、多くの書簡のやりとりも行われていました。
 また、井伏氏も後年になって強く原発には反対され、『怖るべき原発はこの地上から取り去ってしまはなくてはいけない、といふことを書いた。「放射能」と書いて「無常の風」とルビを振りたいものだと書いた。』と記されています。

北日本新聞社の取締役を歴任した著者松本直治氏の息子さんは、北陸電力社員で敦賀原発ほかで被曝、癌になり31才で亡くなられた。友人である井伏鱒二氏が文章を寄せている。 ◆原発事故のこと 井伏鱒二...

Posted by Yuji Masino on Sunday, November 11, 2012


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