船橋の町民は朝鮮人虐殺のあと「万歳、万歳」と叫んだ。

 今日は9月1日で1923年の関東大震災から100年目の日であり、東京新聞をはじめ、多くのマスコミ・メディアが地震や津波による被害は伝えてはいるが、9月3日頃から始まった朝鮮人虐殺や中国人虐殺についてはあまり触れていない。

 私は船橋市民でもあるところから昨日はx(Twitter)で、朝鮮人虐殺について、ある程度の情報を出した。なぜなら船橋は昔から習志野の駐屯地を支えてきた兵站の街でもあり、それを象徴するのが「海軍船橋無線送信所」でもあったからだ。
 そして、現在は自衛隊の駐屯地となってはいるが、嘗てはこの習志野駐屯地からロシアに向けて派兵をし、あるいは当時には天皇陛下まで視察に訪れているという事実もある。この事が船橋市立薬円台小学校のホームページにも載せられていて、小学生にして戦争賛美かと考えさせられ、平和教育を行っている私の郷里の学校とは真逆にも感じられる。


 さて、本題は船橋における朝鮮の人たちの虐殺であるが、前回、書いた記事をまとめてみようと思う。

 まず、最初にあげるべきは、やはり1923年9月3日に「流言卑語」を公文書の内容で発信した「海軍船橋無線送信所」と当時の所長でもあった大森良三大尉の言動だろう。

 その内容は「鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」と記されています。
 そして、9月3日から5日にかけて、千葉県船橋近辺で、自警団によって引き起こされた虐殺事件が多発しました。その犠牲者のほとんどが、北総鉄道(現在の東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人動労者でした。
 松島(現在の東武野田線塚田駅近く)の労務宿舎から船橋警察署に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋警察署前で自警団に殺傷されました。また、鎌ヶ谷粟野の宿舎から船橋送信所に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋送信所で引き取りを拒否され、送信所の警備にあたっていた騎兵を同行させて、船橋警察署へと向かいますが、その途中の天沼近くで自警団に殺傷されました。その状況について渡辺良雄さんは、「警鐘を乱打して、約500人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。私はほかの人達に保護を頼んで群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った」「私が直ぐ引き返して行くと、途中で、『万歳! 万歳!』という声がしたのでもう駄目だと思った」「調べてみると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた」と…..
 人を惨殺して「万歳!」と言える事とは一体何であろうか
(つづく

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