相反する「記念碑文」と「文学碑」

 問題の「碑文」は千葉県船橋市県立行田公園にある船橋海軍無線電信所の記念碑であるが…

この記念碑の碑文には次のことが書かれている

 「関東大震災の時には多くの人を助けた」と書かれてあるが、それは確かにそうだと思う。関東大震災の影響で南房総地方で被害が出て当時の海軍が救援に行ったからだろう。それを伝えたのが船橋海軍無線電信所からの無線通信だったからだ。
 しかし、関東大震災の時には戒厳令を出して「朝鮮人が暴動を起こしてい集団で襲って来る。」「毒を井戸に投げ込んでいる。」「石油で放火している。」「爆弾を所持している。」などなどの流言を政府が信用し出していて、このデマで6000人の朝鮮人の人が惨殺された。
(下の文章が船橋海軍無線電信所から各地方長官宛に発信された電信文)
朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ


 そして、「ニイタカヤマノボレ」で太平洋戦争が始まり、挙句の果て沖縄に上陸され、沖縄の人々は犠牲を強いられて多くの人が亡くならて、本土は米軍機により全国は爆撃されて、終いには広島・長崎に原爆が投下された。
 そして、上の記念碑には「朝鮮人虐殺」については一切、触れていないし、誰が碑文を考えて記したのかもわからない。

 一方で私の郷里にある「戦争はいやだ」から始まり「平和の方がいい」で終わる「井伏鱒二」の文学碑はどうだ。

 ちなみに、この文学碑がある広島県東部の神石高原町においては多くの被爆者も出しているが、この事はほとんど知られていない。それは広島に原爆が投下される前になって急遽、準軍属にされて、出征されなかった30代後半から40代の人たちが広島市の建物疎開のために入市され、原爆投下がされた時刻ににちょうど作業に出かけていた時に直爆を受けて亡くなったり、帰郷してからも放射能や黒い雨などにより原爆病を発症されて一生苦しんで生活されて、早い時期に亡くなってもいる。


また、その人たちを救援に行かれ入市された人たちも残留放射能により被ばくされて、帰郷後に発症されて同じように亡くなっている事なども併せて、「原爆被害者協議会」が創設されて、日本政府たいして「核廃絶」「核兵器禁止条約」を求めている。 一方で千葉県はどうだ!「核禁」を求めているのは「我孫子市」「勝浦市」「鋸南町」のみで、人口60万都市の「船橋市」などは….戦争賛美で核禁などはどこ吹く風ではないのか。 私はそのような事からも現在、かかりつけの診療所に私の郷里の原爆被害者協議会が作られた原爆体験談をまとめられた「ピカドン」を寄贈させていただいた。診療所に行かれた方はお手にとって読まれてみて下さい。戦争がどんなに悲惨なことがか良くわかるでしょう。

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