自分を定義するものについて
私は宮沢賢治の『春と修羅』を挫折している。
最初の文、わたくしという現象についての説明が、全くもって理解できなかったのだ。
“自分”を定義するものは一体なんなのだろう。
“私”はどこにあるんだろう。
私は中学生の時から(いかにも思春期!)ずっとこの事について考えてきた。最近やっと文にできるくらいには思考が固まったのでこれを書き記しておき、もっと時が経ってから見返してみたいと思う。
(宮沢賢治について論ずる文ではありません。
また、殴り書きのメモな上しっかりとした結論は出ていません。)
はじめ、“私”は思考にあるのだと思っていた
小学校高学年から中学生のなかほどまで、私は“私”が思考にいるのだと考えて生きてきた。
私は当時とても勉学が好きで得意で、周りからの評価も概ね『性格と生活力他もろもろ心配だけど、あなたは頭が良いからきっとどうにか生きていけるわ』というものだった。
私は私の価値を脳にあると定義し、“私自身”の定義もこの脳と思考力にあるとしていた。
お気に入りの思考力、読書好きな脳、県内10位の成績。これらが“私”で、肉体を失ってもこれさえあれば“私”は成り立つと考えていた。
その定義が成り立たなくなった、成り立っては困る状況になったのは中学の半ば。
バカになった“私”は私であるか
簡単に言うと思考力を失ったのだ。
コロナの後遺症でよく聞くブレインフォグと似たようなものが私の脳に起こった。
起立性調節障害の影響で脳に血流が回らない結果起こった障害かもしれないし、うつ病みたいに脳が傷ついて起こった変化だったのかもしれない。
原因は今もわからないが、とにかく私の思考力はがくんと落ちた。
脳の働きが“私”とまるきり変わってしまったのだ
丁度思春期真っ只中。アイデンティティを模索する時期に私は“私”を失ってしまい、おおいに焦った。
脳が、思考が“私”ではなかったのか?
しかしよく考えたら認知症は自身の喪失なのか
私は私の祖母をみる限り、違うのではないかと考えた
というか、自分の“わたくしという現象”の定義が恐ろしく暴力的なものであったと気づいた。
このままでは私は“私”を失ったことになってしまう。私はかわいそうな人間であることが昔から嫌いだったので、急ぎ“私”を再定義し始めた
でも“身体”ってテセウスの船じゃん
私は、自分の定義を“身体”に預けることにはかなり違和感がある。
身体に違和感があるわけではない。身体が気に入らなかったわけでもない。別に絶世の美女ではないけど好きな顔だし、身体もちんちくりんでかわいいし。
病人なのは不満だったけれど、健康になった今はもーまんたい。何より20年連れ添った機体なので、愛着が湧いている。
ただ、ただただ、ここで問題が起こる。
身体の細胞って10年くらいで全部入れ替わるらしいじゃん。
20年連れ添えてないじゃん
そんなものを“私”に定義すると、5歳の時の私と20歳の私は完全に別の現象になってしまう。
ので、成り立たない。
そもそも“私”の損失は悲しいことなのか
私は自分の思考ががた落ちしたことをかなり悲しんでいたが、これについて「悲しかった」と口に出すことはあまりしなかった。
とにかく“かわいそうなひと”扱いされるのが嫌だった。この頭が簡単には戻らないと悟ったあとは住む世界をガラッと変え、新生の私を“私”として生きていた。
『自分という現象』が否応なしに変わってしまった時、私は昔の自分を知っている人から離れるのがよいと思っている。
『昔の私』を誰も知らない世界では『今の私』が私の基本定義になる。“変わってしまった”という評価は息苦しい。“戻ってほしい”とか“今の方がいい”とか、勝手な評価が沢山で面倒に感じてしまう。
「いなくなってしまった」なんて言われてもどうしようもなく悲しいだけだし。
それからの私の人生はなかなかかなり楽しいものだった。息苦しい学校を終わらせ自分で選んだ高校はとても楽しく、勉強を放棄した後も私は生きられ、本の読めない脳でも他の娯楽は楽しめた。
どうせ避けられぬ喪失なら愛すべきか
自分の脳の回転率が下がった話をポツリと話すと、ある人に「でも、あなたは“そう”なってからの方が人と上手く関われてるからいいんじゃない?」と言われて私はとても大きな衝撃を受けた。
あの瞬間に私は一度死んだ気がするのだ。
そしてその死が悲しいことなのか、“私”の損失は悲しいものなのか。私にはよくわからない。
幼少期の私が、“脳の回転率”によって人と上手く関われていなかったのだったら、正直かなり切ない。でもその状態から“抜けられた”のだったら、それは嬉しいこと、になるかも?
損失と創始が同時に起こるなら、私はそれを歓迎するべきではないのか?
しかしそしたら昔の私は?いなくなってしまった“わたしという現象”の行き場は!
うーん、よくわからなくなってきた
そもそも確固たる自分自体が存在しないのか
そもそもの話だ
『思考力がある』という昔の私の定義は、私の主観である。
いや、人にも言われていたがそれも“その人の主観”でしかない。
“私”というのはなんなのだろうか。
皆なにをもって自分を自分だと認識しているんだろう?
この思考にたどり着くことには私はもう20歳に近づいていて、なんかもう、いいかもしれない と思い始めていた
あらゆる透明な幽霊の複合体
私というものはひとつじゃないのかもしれないと思い始めた。
人間というものは、時の流れの中でころころころころ変わり続ける一貫性のないものなのかもしれない。
ここ最近は私の顔も妙に増えてきた。ゲームの影響でこれをペルソナって言うらしいと知っている。
もう使わなくなった、使えなくなった私という現象のこと、覚えているのは私だけかもしれない。しかも記憶はおぼろげで、もしかしたら脚色や編集が入っているかもしれない。私一人の記憶だけでは信用できないが、私自身が生きる場所を変えてきすぎたので、もう“すべての私”を知っている人はいない。
もう誰も覚えていない過去の“私”。覚えていないからといって捨て去るのはなんだか嫌だ。
あの子をひとりぼっちにしたくはないな、と思う。“あの子”と思っている時点で、あの子はもう“私”ではないのかも知れないけれど。できれば全員を“私”と呼んでいたい。
“私”が沢山いすぎてひとりぼっちだ
少し前、住む世界をコロコロ変えてきたのはまずったかなぁと少し考えたりした。
私は時々不可抗力によって変化する。私はすぐに居場所を変えるものだから、皆それぞれその瞬間の“私”だけを私だと思っている。
最近、頭の回転が回復してきているような気がする。一番まずかった時に比べると、少しはましになってきていると言う体感がある。
もしこのまま、まだまだ回復するならば、私はまた『頭が回りすぎて取っつきにくい人』に戻ってしまったりするのだろうか?
また、不可抗力によって緩やかに別の人間に変化していってしまうのだろうか。そうしたら、今の友達とは今のまま話せるのだろうか。
そうなったらまたひとりぼっちから始めるのだろうか。慣れちゃった気もするが、とはいえ困ったものだ。人生って普通こんな感じなのだろうか。よく分からないことばかりだ。もう最近はなんかあまり気にならなくなってきた。
自分の歴史を“私”と呼ぼうか
妙に顔の増えてしまった“私”。最近は“家の顔”もできてしまって、そのうち社会に出たらもっと増えるのかもしれない。
どれもその顔を手に入れるまでの過程があり、元の“それでは上手くいかなかった私”がいる。
人に『懐に入るのが上手い』と誉められる度、『大人に向かってなんだその口の聞き方は』と怒鳴られ続けている幼少期の思い出の私が目を見開いてこっちを見る。
どっちも私なのだ。
『幼少期からその態度の悪さで怒られ続け、話を聞いてもらうために話し方を工夫することにして努力を重ねた私』が私なのだ。
自分のこと定義するなら、
『今まで生きてきた時の中で抱えてきた思考』の中にある、と言えるのかもしれない。
とすると、私は私として、
“私”を世界一多く知っている者として、
これまでとこれからの私を全部愛していきたいな と思ったりした。
どうやらやはり、一人で生きていくようだから