書評/『東京都同情塔』(九段理江著):生成AIは我々の価値観と言語をどう変えるだろう?
九段理江著の『東京都同情塔』は、第一七〇回(二〇二四上半期)芥川賞を受賞した。本書は、ザハ・ハディド設計の国立競技場が建設された東京という仮想の近未来を舞台に、巨大な刑務所塔の設計に携わる女性建築士の葛藤を通じ、弱者への過剰な同情を助長する社会の矛盾を浮き彫りにしている。生成AIが紡ぎ出す「正しい」回答への依存が人々の言語と価値観の深みを蝕む様も描かれており、AIとの共存への警告もこめられている意欲作である。
物語は、三七歳の著名建築家である牧名沙羅が、新宿御苑に建設予定の巨大な塔の設計コンペに招待されるところから始まる。この塔は、東京オリンピックのために建てられたザハ・ハディドの新国立競技場と並ぶ新しいランドマークになることを期待されていた。塔は、タワマン顔負けの豪華設備を持った刑務所として使用されることになっていたが、当初沙羅は塔の使用目的になんら関心を持っていなかった。ところが、塔の名称が「シンパシータワートーキョー」だとわかった時から、このプロジェクトへの激しい嫌悪感を持つようになる。沙羅は、以前から外来語を借りてきてカタカナ表記に置き換えさえすれば、ポリコレ的にも感覚的にも八方丸く収まる風潮に強い反発を感じていたのだ。彼女はデザイン・コンペへの参加を辞退すべきかを悩むなかで、シンパシータワートーキョー構想は、マサキ・セトなる幸福学者の「社会は犯罪者に同情を寄せ、彼らが幸せになれるように支援すべきである」という思想に基づいていることを知る。
沙羅は、一五歳下の“親しい”友達である拓人のアドバイスで「シンパシータワートーキョー」を「東京都同情塔」と呼び名を変えることで自身の問題を解決し、塔建設のコンペに参加する決心をする。一方拓人は、犯罪者を過剰に優遇するこのプロジェクトの是非を巡る本音の議論を避け、社会正義のキーワードを並べたてて東京都同情塔を理想化しようとする沙羅の言動が、まるでAIの回答のようだと感じる。沙羅は、日頃からAIの魂の感じられない答えに苛立ちを感じていたけれど、いつしか不適切な表現がないかをセルフ検閲する習慣が身についてしまい、自分自身の言葉を失ってしまっていたのだ。
沙羅がコンペに勝ち抜き、無事に東京都同情塔を完工した後に、物語は大きく動く。未来永劫に保証される幸福と引き換えに、ネガティブな言動を忘れることを約束して東京都同情塔に入所した犯罪者は幸せになったのか。沙羅はその後キャリアと生き方を変えたのか。拓人はできあがった東京同情塔と沙羅とどう関わっていくのか。そしてマサキ・ヒトと東京同情塔は如何なる運命を辿るのか、怒濤の展開が圧巻の筆力で描かれる。
本書は、カタカナ・コンセプトが氾濫する昨今「日本人は日本語を捨てたがっているのか?」という問いかけと、「ネガティブな物言いを極力回避するAIとの共存が我々の言語を表面的で薄っぺらなものに変えていくのではないか」という懸念を投げかけている。
なお、著者が芥川賞受賞後のインタビューにおいて「生成AIを酷使して書いた」、「全体5%ぐらいは生成AIの文章をそのまま使っているところがある」と述べたことを受けて、本書をあたかもAIが書いた小説であるかのように捉えた意見がネットを賑わせた。しかしながら、AIと人間との関係への深い考察からも窺えるように、小説執筆をコントロールするグリップを握っていたのは、紛れもなく九段理江その人であったことは、一読すれば明確である。