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拝啓 村上春樹先生 (1960年代生まれの読者からの書簡・2023年4月初旬)

はじめに

 これは村上春樹氏への手紙に模した書評エッセイです。私にとって村上春樹氏は、心のどこかで羅針盤となって存在してきた小説家であり、その作品を語るにあたっては、『個人的な書簡』という形式が、一番自然に言葉が紡げるように思えました。一九六〇年代生まれ世代にとっての『村上春樹』を考える一助になれば幸いです (2023年4月初旬)。

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拝啓 桜花の候

 村上春樹先生におかれましては、六年ぶりの長編『街とその不確かな壁』の発売を目前に控え、益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。東京では、桜は散り始めでしょうか。私の住むニューヨークでも寒空の下、ソメイヨシノが花をつけ始めました。

 この手紙をしたためようと思い立ったきっかけは、春樹先生との共著『映画をめぐる冒険』及び村上作品に関する多くの評論を出版なさった川本三郎先生が、私がZOOMで受講している講座に講師として招かれることになったことです。高度経済成長に育ち、バブルに踊って二十代を過ごした私達一九六〇年代生まれが辿ってきた時代と村上春樹小説の変遷を著者への手紙という形式で書き、川上先生にご講評頂きたいと考えた次第です。

 親しみをこめて『春樹先生』と呼ばせて頂く無礼をお許しください。村上春樹先生と私達との間の距離はこの数年で、どんどん縮まりました。私は旧友K君が毎月末にラインに貼ってくれるTOKYO FM『村上RADIO』の録音ファイルを再生しながら、ユニクロ・ソーホー店で買った村上春樹Tシャツを着て、セントラル・パークを走っています。ノーベル文学賞がお休みだった五年前の秋、春樹先生もジョギングを楽しまれたあの巨木が茂る公園です。いつのまにか私や友人達は、世界的文豪である『村上春樹』を、師弟関係もないのに春樹先生と呼ぶようになっています。先生が取り組まれてきた新たなコミットメント(社会への働きかけ)の副産物と言えなくもないこの呼称を使わせて頂ければ幸いです。

1.  悪を知らない私達が出会った春樹ワールド

 春樹先生の本に出会ったのは、生まれ育った山形市から東京の私大に進学した一九八二年の晩秋のことでした。所属していた山岳部の部室に授業の合間に顔を出すと、そこには冷え切った空気のなかで静かに本を読んでいる同期のK君の姿がありました。彼は私と同じ経済学部でしたから、終わったばかりの大教室での授業に出席しているはずでした。
「あれ、マクロの講義出た?」
 との私の問いに
「出てない。後でノート見せて」
 とだけ答え、彼はまた本に目を落としました。その本こそが発売されたばかりの『[i]羊をめぐる冒険』でした。聞いたことのない筆者の、童話のような題名と表紙の本に、特別興味は湧きませんでしたが、真面目なK君が必修科目をサボってまで、その本を読み続けていたことが印象に残りました。その後、K君が村上春樹という新進作家の小説を愛読していることを聞きました。

 K君の影響で『羊をめぐる冒険』を読んだ時、文学もようやく私達の時代に追いついてきた、という興奮、いや正直申し上げると安堵感を感じました。春樹先生以前の文学は、ポップ・カルチャーに比べ変化の方向がはっきりせず、いつまでも難解なままだった印象があります。大衆文化とは一線を画したところに文学の意味があるのではないかとさえ考えておりました。これについて少し説明させてください。

 私は、日常的にデモ行進を目にし、意味もわからず「安保反対」とどなって遊び、浅間山荘事件をテレビ画面で見届け、時代の影を覆い尽くすような派手な衣装で歌う美男美女のアイドルを偶像崇拝して育ちました。子供といえども石油ショック以降の世相の暗さを四畳半フォークの音色に感じていました。空気が軽くなり始めたのは中学に進学した七十年代中頃でした。それは自作の曲を歌うアーティストが出現した音楽シーンで顕著でした。中学で合唱した荒井由実の『卒業写真』の淡さには、貧しさや生活臭といった濁りは微塵もありませんでした。灰色の雲から顔を出していた青空はどんどん広がって行き、YMOのテクノポリスが高校の文化祭で流れた時、山形から未来の空を仰いだ気持ちになりました。八〇年代初頭に見た東京の空には、後にバブルを作った上昇気流が立ち上り始めており、[ii]JJガールが闊歩する大学キャンパスはファッション雑誌さながらに華やかでした。

 申し上げるまでもなく文学界でも一九七六年に『[iii]限りなく透明に近いブルー』という大革命が起こっていました。国語の先生が推奨する漱石、太宰、三島といった近代文学作品と母の本棚にあった遠藤周作や北杜夫あたりを読み齧っていた中三の私にとっては、それはハードロックのバイブが全身を突き抜けたような衝撃でした。ページを捲っても、捲っても、鳴り止まないドラッグと暴力の大音響は刺激と毒が強すぎて圧倒されるばかりでした。それに続く『[iv]エーゲ海に捧ぐ』は舞台こそ美しくなりドラッグが官能に置き換わったものの、主人公が欲望に溺れた末に破綻を迎えるという『限りなく透明に近いブルー』と同じテーマのように映りました。二つとも私の生きる世界と懸け離れ過ぎていて、主人が最後に見たものを感覚的に受け止めたものの、消化しきれませんでした。

 上京した年(一九八一年)にベストセラーになった『[v]なんとなくクリスタル』は、湿り気が残っていた空気がドライになっていくことを予感させ、スタイリッシュに自立していく主人公は私達女子大生の外面的ロール・モデルとなりました。私にとって同書はブランドの指南書としての実用性は高かったものの、主人公の内面的希薄さに共感を持つことはできませんでした。大学キャンパスからはイデオロギーや思想は消え失せており、私達の世代の多くは精神的にクリックできるものを探せないでいました。

 そんな時に出会った『羊をめぐる冒険』は私をインスパイアしました。先生が紡ぐ平坦でリズムの良い文章、モダンでウイットに富んだテンプレート、随所に漂うアメリカン・テイスト、羊を巡る超自然現象のリアルさに引き込まれ、率直で正直な主人公に共感しました。自分が理解、共感できる文学に出会えたような気持ちになれたのです。ところがわかった気になっていただけで、先生の作品の難解さに気づくのは大分後のことでした。

 この本を初読した時の私は(恐らく同世代読者の多くも)、作品のセンスの良さに気を取られるあまり本質を見落としていたのです。羊に託された『邪悪』という抽象的概念の正体への深い考察が足りなかったのです。人間に入り込む特殊で邪悪な羊というものは、危険思想や非倫理的精神構造を象徴するもので、アドホックで個人的な内面の問題だと捉えていたのです。物質的価値が人々の心を占拠しつつあったあの時代、弱い精神に入り込む『邪悪な羊』の存在は精神面軽視の風潮に対する警告であり、それと向き合う勇気と弱い隣人に寄り添うことの大切さを教える物語として読んでいました。戦争もテロも天災を経験せずに大人になったその頃の私達(一九六〇年代生まれ)は、個人レベルの悪しか知らなかったのです。

 『邪悪な羊』が多くの人間に入り込み社会に脅威を与えうる悪、実存していたマクロ的悪であるという解釈があることを、最近になって川本三郎先生の[vi]評論を通じて知りました。川本先生は『羊をめぐる冒険』が出版された直後に『邪悪な羊』の正体について

 ーー『一九六〇年代末期から七〇年代初頭にかけて、当時の若い世代をより非現実の彼岸へ押しやった革命思想、自己否定という観念ではないだろうか』

 と解き明かし、羊に入り込まれ自死した鼠についても

 ーー『革命思想にひかれ死んでいった無数の……連合赤軍の死者達を思い出させるものである』

 と述べています。これには大きな衝撃を受けました。この解釈をもって『羊をめぐる冒険』を再読すると、物語は俄に別の様相を見せ始めたのです。アメリカ在住の私は『邪悪な羊』が体内に入り込んでしまった『鼠』に、二〇二一年の一月、国会議員を殺戮しようと米国議事堂を襲撃した過激なトランピアンが重なりました。彼らの多くは、かつてアメリカ製造業を支えた勤勉な労働者であり、他国への生産拠点移動や移民流入により職を失った人々です。老いて他業種への転職も叶わず、グローバリゼーションがもたらした都市部市民との富の格差への怒りを抱えていました。自信を失った彼らの心に、”アメリカ・ファースト”を囁き、『選挙は不正に奪われたから国会議員を殺せ』というゼスチャーを送りこんだのが、『邪悪な羊』に見えてきたのです。自分を乗っ取ろうとする”羊”を消すために自死を選んだ『鼠』の勇気とそれに寄り添った『僕』に、バイデン政権下、分断から和解への道を歩み始めたアメリカが投影されました。

 この「羊=邪悪な何か」という[vii]抽象的メタファー(換喩・他の何かを表すもの)を巡って、いくつかの考察をしました。

 第一に考えたのは、本書が執筆された時点では、様々な理由により大学闘争に関わる暴力や殺人事件を題材にすることは極めて危険を伴ったのではないかという時代背景です。言い換えれば、連合赤軍や特定のセクトといった固有名詞を出すリスクが大きすぎるなか、それを匂わせるギリギリの手法として使われたのが『羊』と『鼠』であった可能性です。春樹先生が在学中の早稲田大学第一文学部内で起こった内ゲバによる虐殺事件の詳細が、二〇二一年に出版された樋田剛氏のノンフィクション『[viii]彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件』によって明らかになりました。学内の暴力の熾烈さは戦場さながらであった事、またその当時の学生がいかに恐怖に怯えていたかを知るに至り、春樹先生が多大なるプレッシャーを感じながら『羊をめぐる冒険』を世に送り出したのではないかと想像したのです。また先生が『エルサレム賞』受賞スピーチにおいて、『壁と卵』の比喩を使って間接的にイスラエルのガザ侵攻を批判した事を考えても『羊と鼠』に何らかの切実なメッセージがあったと考えても不思議ではないような気がしています。

 次に考えたのは、メタファーという手法のメリットとデメリットです。川本先生は、特定の事例ではなく抽象的なもので本質を表現できた場合、その物語は普遍的なメッセージを読者に送ることができる、と指摘していらっしゃいます。このメタファーの有効性については、今回改めて認識しました。一九八二年に本書を読まれた川本三郎先生は、連合赤軍事件や大学紛争の犠牲になった友人を羊や鼠に重ね合わせ、四十一年後の現在に再読した私は、アメリカ分断のなかでのトランピアンの苦境を思い起こしました。川本氏は『死と再生の物語』と述べられましたが、私はこの小説にエンパシー(相手を理解し寄り添うこと)の大切さを教えられました。こうした普遍性のメリットがある一方、私の初読の時のように、読者がメタファーに気づかない場合、作者が伝えたい事が十分に伝わらない、またコンセプトは伝わってもメッセージのインパクトが弱くなるリスクがあるようにも思います。

 もっとも、この小説が大学闘争末期の傷をベースに書かれていることを示唆する記述は本書のどこにもない以上、春樹先生の意図はわかりません。先生は『書き上げた小説は読者のもの、どう読まれようと構わないし、書いた内容は忘れてしまう』とおっしゃっていますので、「読者が羊や鼠を何に当て嵌めようと関係ありません」と苦笑されてしまうかもしれません。

 先生が『デタッチメント(他人との関わりから離れた状態と個人の尊重)』を重視しておられた『[ix]世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『[x]ノルウェイの森』、『[xi]ダンス・ダンス・ダンス』までの時期においては、解釈は読者任せという形で何ら支障がなかったと思います。けれど、先生が重点を『コミットメント(他人や社会との関わりあいを重視すること)』へ移されてからは、読者が先生の意図を正しく理解することの重要性も増してきているようにも思います。

2 悪を見てしまった私達と春樹先生の社会的コミットメント

 今は亡き河合隼雄氏との[xii]対談で、春樹先生は四年半に渡る米国滞在を終え一九九五年五月に帰国した頃から、デタッチメントからコミットメントへ重心を変えられたことをお話になられていました。その変化には阪神大震災と地下鉄サリン事件の影響があることも明かされていました。この二つの出来事こそが、私達六十年代生まれが初めて目の当たりにした国家を揺るがす巨大災害とテロでありました。ついに私達にも邪悪なもの、それも同世代が主体となったオウム真理教というテロリスト・グループが迫ってきたのでした。私は、地下鉄日比谷線霞ヶ関駅下車で通勤していたのですが、たまたまサリンがばら撒かれた日は休暇で北海道におりました。札幌のホテルのテレビで、見慣れたホームや駅で乗客が倒れている様子を見て震えが止まりませんでした。

 地下鉄サリン事件が起こった五ヶ月後に、発売になったばかりの『[xiii]ねじまき鳥クロニカル』の最終巻(第三部)を読みました。前年に出版された第一部、第二部に比べ、トーンはぐっと暗くなり、村上作品で初めて残虐極まりない暴力シーンを読みました。歴史的登場人物も『羊をめぐる冒険』の元A級戦犯の大物右翼とは比べものにならない程残酷で非人道的な、ノモンハン犯事件の関係者が登場しました。この作品がコミットメント小説の始まりと言われていますが、『妻という身近の人間を救う』という個人間でのコミットメントであったように思います。

 先生が個人的コミットメントからいよいよ社会的コミットメント(社会との関わりあいや使命感)に乗り出すなかで、先生が注視している社会問題を『メタファー』で象徴させるという流れは益々顕著になっていったと理解しております。実際『[xiv]海辺のカフカ』はそうした意図で書かれた作品として多くの読者に受け止められています。異世界で(別人の手を借りて)父親を殺す主人公が、神戸連続児童殺傷事件の犯人をモデルにしているという解釈が[xv]著名評論家によってなされる一方、同時多発テロがモチーフになっているとの説を主張する[xvi]書評も目にしました。

 その頃、爆心地であったワールド・トレード・センターから二ブロックのところに住み、テロの犠牲者が身近にいた私にとって、海辺のカフカに登場するジョニー・ウオーカーをテロリストと見立てる解釈に違和感を感じました。残骸の撤去に一年以上かかり、何ヶ月も白い煙が立ち上っていた爆心地は近隣住民にとってはまさに邪悪な異世界であり、炎が迫るビルの高層階から沢山の人達が飛び降りた悲惨さを彷彿するものでした。この世の地獄を、猫殺しのウイスキー・ラベルのキャラクターを退治する物語に重ね合わせることは、悲劇の重さを軽視するようで受け入れられなかったのです。物語の構成上も、春樹先生が同時多発テロを念頭に海辺のカフカを執筆したとは考えられないと思いました。

 ただそうした経験を踏まえ、抽象概念によるメタファーで筆者の社会的コミットメントを読者に伝えることの難しさを想像しました。メタファーとリアルの世界の重みがかけ離れてしまった場合、その物語は現実世界で苦しむ人々に寄り添うことができるのだろうかと疑問を持ったからです。もし神戸連続児童殺傷事件の犠牲者の遺族が、カフカが犯人のメタファーであると言われたならば、どのような感情を持つだろうか、という思いを巡らさずにはいられませんでした。

 一方、世界はパンデミックとウクライナ侵攻といった未曾有の脅威に直面し、日本と中国との軍事的緊張も高まっています。邪悪な空気は広まりつつあるのです。そうしたことに対して私達がどう向き合うべきなのかを示唆する春樹先生の社会的コミットメントを私達は求めています。異世界に入り登場人物が悪と戦うという『ねじまき鳥クロ二カル』以降の村上ワールドでは、「暴力に対しては暴力で対峙する以外方法はないのだろうか?」という疑問が残ってしまうように感じます。そうしたなかで、今回『羊をめぐる冒険』を再読して、悪というものの根源は元を正せば人間の心が乗っ取られることであり、ひとりひとりが心を再生することが社会の再生の鍵になるのだということを認識し、癒やしを得ることができました。

 来週には、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に関連していると言われている『[xvii]街と不確かな壁』が発売になるということで、人間の精神を深く掘り下げ、そこからリアルの世界での解決の糸口を見いだすような小説に出会えるのではないかと、期待しております。

 大分話しも飛躍し、勝手なことを申し上げてしまいましたが私達にとって村上春樹は一小説家以上の存在です。これからも、沢山の素晴らしい小説を世界の読者に向けて執筆頂けることを願ってやみません。

 乱筆乱文をお許しください。

敬具  

  2023年4月初旬 


青山涼子  

村上春樹先生


[i] 村上春樹の三作目の長編小説(1982講談社)

[ii] 八十年代に女子大生のバイブルと言われたファッション雑誌『JJ』に出てくるようなお嬢様風ファッションに身を包んだ女性の呼称

[iii] 村上龍(1976講談社)のデビュー作。1976年に芥川賞を受賞

[iv] 池田満寿夫の小説。野性時代1977年1月号掲載。1977年芥川賞受賞

[v] 田中康夫が1980年に発表した小説。1980年文藝賞受賞。1981年芥川賞候補。

[vi] 川本三郎(1982/9)『羊をめぐる冒険』を読むーー村上春樹の世界Ⅱ、文學界→『都市の感受性』、(『村上春樹論集成』2006若草書房に収録)

[vii] ここでいうメタファーは比喩というよりも英英辞典によるmetaphor定義であるa thing regarded as representive or symbolic of something else, especially something abstract としてとらえる。

[viii] 樋田剛(2021)『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件』文藝春秋

[ix] 村上春樹の四作目の長編小説(1985新潮社)

[x] 村上春樹の五作目の長編小説(1987講談社)

[xi] 村上春樹の六作目の長編小説(1988講談社)

[xii] 村上春樹、河合隼雄(1996)『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮社

[xiii] 村上春樹の八作目の長編小説(1994新潮社)

[xiv] 村上春樹の十作目の長編小説(2002新潮社)

[xv] 加藤典洋氏は著作「村上春樹はむずかしい」13章の『海辺のカフカ』に関する評論のなかで『︙村上はたぶん、︙、神戸連続児童殺傷事件から着想している』と述べ、事件の犯人の解離性同一性障害とカフカの多重人格に類似性を見出している。

[xvi] 例えば、川村湊は著作「『アメリカ』から遠く離れてーー『九一一』」以降と海辺のカフカ」において、海辺のカフカと同時多発テロとの関連性を論じている。

[xvii] 村上春樹の最新の長編小説(2023年新潮社)

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タイトル画像は生成AIにより作成。

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