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映画『ヒプノシス』 ジャケットアートの、芸術的価値を求めて

2月に入って激務が続き、noteになかなか手がつけられず、もう今月も終わろうとしています。
入稿、ラフ出しが続いて一瞬のエアポケット。すかさず恵比寿ガーデンシネマへ。
お目当ては『ヒプノシス ーレコードジャケットの美学ー』


70年代とレコードジャケットのスケール感

70年代ブリティッシュロック、自分は世代的にほとんど被っていなかった(リアルタイムは幼稚園〜小学生低学年でしたから)のですが、グラフィックデザイン、特に音楽系(CDジャケット)のデザインへ進むことを決めてから意識して見たり聴いたりし始めます。

アメリカの、スコーンと抜けた青空と乾いた感じ、というよりも、どんよりとした、どこかウェットな翳を感じるようなイギリス特有の雰囲気が好きで、洋楽レコードジャケットデザインをまとめた書籍や雑誌などですぐに「ヒプノシス」を知ることになります。

余談ですが、イギリスではピーター・サヴィルヴォーン・オリヴァー、そして敬愛するネヴィル・ブロディ、と、自分好みのデザイナーが続々と世に出てきて、大学時代にはイギリスへの憧れがますます強くなっていき、のちに1人旅をするまでに。イギリス話もいつかまた。

当時「ヒプノシス」の手がけた数々のジャケットの革新性、斬新さに衝撃を受けたことを覚えています。彼らが音楽ジャケットの概念を変えたと言っていい。
そして自分も当然インスパイアを受けまくります。

なんといってもアナログレコード、サイズは大きく迫力が違いますよね。自分もCDジャケットのデザインをしている側なので感じるのですが、おそらく「スケール感」が違うというか、感覚的に「手や体を動かしている範囲」が違うというか。

CDのデザイン、もちろん撮影でもMacでデザインをしている時でも大きなモニターで確認しながら、そして時には拡大しながら作業を進めているのですが、だからこそ逆に「細部」や「内側」へ向かっていく、詰めていく作業に没頭していく感じなのです。当然ですが始めから「12センチ」のサイズ感で考えている。

アナログレコードの場合。なんといってもまずは「全体」と「迫力」、この2つを意識するのが大切だなと感じます。大きく強いインパクトのあるものを出す、ワンアイデアでガツンと「外側」に向かっていくイメージがアナログ制作にはある気がしています。アナログサイズの外側にまで世界が広がっているような、見えない部分を感じさせる力。

時々自分が手がけたCDジャケットで「アナログ盤も出すので拡大リサイズお願いします」といった依頼があるのですが、なんというか、CDにはCDのサイズの、アナログにはアナログのサイズに適した「詰め方」「仕上げ方」があるので、ただ拡大しただけでは伝わらないもどかしさを勝手に1人感じています。


映画で描かれるデザイナーあるある

話が逸れました、映画の感想を。
モノクロのドキュメンタリー、監督は写真家でもあるアントン・コービン
ヒプノシス創設者の一人、オーブリー・パウエルのインタビューを中心に映画は進みます(中心人物、ストーム・トーガソンは2013年没)。

アートスクール時代のストーム・トーガソンとの出会い、LSDなどのドラッグの話なども挟み、当時同じアパートに住んでいたきっかけで、ピンク・フロイドの「神秘」というアルバムのジャケットデザインをやらせてもらうことに。

当然Macなどない、完全アナログ作業。
写真をプリントし、手で覆い焼きや焼き込みなど暗室作業を経て切り貼りしてコラージュ、さらにそれに着色など、きっと楽しくてああでもない、こうでもない、とトライ&エラーを繰り返しつつ作業していたことは想像に難くない。

自分も大学時代の、暗室に籠って現像したりプリントしたり、とにかく「やっていること」それ自体が楽しい、目的はとりあえずあるものの、ただ行為それ自体が楽しくて仕方なかった、そんな記憶が蘇ります。

かの有名な「牛」(『原子心母』)のジャケットも、「全然音と関係ない、最も意味のない写真」を求め、牧場で目についた牛の写真を使用。この当時よくもまあ、そんな大胆なことを、思いついたとしても実行するというのは凄いことです。文字が一切入っていないというのも画期的。自分だったら、レコード会社の方に言われてすぐ文字入れそう笑。

映画はポール・マッカートニーピンク・フロイドレッド・ツェッペリン、そしてノエル・ギャラガーなどのインタビューをインサートしながら、当時の貴重な撮影の様子などが垣間見れて特にクリエイターであれば是非とも観てほしい内容。

ピンク・フロイドの『狂気』のプリズムのジャケット。
トーガソンが語ります。
「ジャケットのアイデアを6個ぐらい持っていったんだ。でもこのプリズムの案を見たメンバーは他のアイデアもまだあるのに「no, no, no,…(プリズム案を見て)Yes!」他のを勧めてももうプリズム以外見向きもしなかったと。

へえ、やっぱり、一応プレゼンの時はヒプノシスでも5〜6案はアイデアラフ持っていくんだ!と、変なところで感心。
ちなみにボツになったり採用されなかったアイデアは他のアーティストのジャケットに採用したりもしているとか笑、これも共感笑。

実際にロケをして、実際に「撮る」

Photoshopもない時代、トーガソンは実際に「撮影」をすることにこだわりとプライドを持っているように感じました(もちろんイラストも多用していますが)。
砂漠に真っ赤なボールを並べたり、砂浜に800台もベッドを並べたり.
その、「実際に在る」という写真の強さは、やはりただの合成とは重みが違うように感じられます。

手元にある、2001年にストレンジデイズから発行された『ROCK meets ART』(STRANGE DAYS COMPILE SERIES VOL.1)より、トーガソンのコンピュータの出現に対するインタビューを引用します。

「それぞれの場所には、そこにしかない独特の性格や光の加減というものがあるからさ」
「僕たちはそもそもの写真はちゃんとしたものを撮るから、大きなマシーンで加工して、ということは必要ないんだ。
(中略)
でもそうしたツールは、クリエイティブなアイデアそのものとか、手法自体をそれほど大きく変えるということはないね」

「ROCK meets ART」(2001年7月31日 発行:有限会社ストレンジデイズ)より

もし現在、最新のMacを使ってトーガソンがジャケットを手掛けたとしたら、いったいどんなものを生み出していたのだろう、そんな夢想もしてしまいます。

デザインか、アートか

映画を観ながら感じていたこと。
(彼らはグラフィックデザイナーでありつつも、どうしようもなく『アーティスト』なんだ!)ということ。
もちろん、友人や身近に売れっ子のミュージシャンがいて、彼らはまさに『アーティスト』であった。彼らと渡り合う自分たちもまた『アーティスト』である・いるべき、という強い自尊心があったのではないか。

以前noteでデザインとアートの「呼び方」に関した記事を書きました。

一言でいうと「デザイナーはアーティストではない」という明確な線引きなのですが、やっぱり、こと「音楽ジャケットデザイン」に関しては「限りなくアートに近い」要素があります。

トーガソンは同上のインタビューではっきりとこう答えています。

「僕たちはいつも自分に言い聞かせてきたんだ。自分たちの作品は音楽そのものに匹敵するようなアートだってね。音楽による聴覚的な経験と同じくらい、芸術的な価値のある視覚的経験を創造する、ってことを常に考えてきたんだ。
(中略)
ジャケットのアートワークもまた、残っていくことを意図したものなんだ。
(中略)
そして音楽と同じように、ジャケットのアートもそれ自体で1個の独立したアートとして残っていけるように、ってね」

「ROCK meets ART」(2001年7月31日 発行:有限会社ストレンジデイズ)より

彼らは、アーティストのレコードの売り上げなどを意識せず、完全に「アート」としての位置付けでジャケットを手掛けてきたのです。

映画の中で、ノエル・ギャラガーが言います。
レコードは貧乏人のアートコレクションだ。金持ちは本物の絵画を集めるが、金のない連中はレコードを集める」

言い得て妙。「そうか、レコジャケも、絵画作品になり得るし、アーティスト自らが『アート』という認識をしてくれている」となんだか目から鱗。

まあ、作り手としてはデザインかアートか、なんてカテゴリー分けはどうでも良いんですがね。ただ、やはりアナログしかりCDしかりジャケットなどの音楽デザインが魅力的だったり人気があるのは、限りなく「アート」寄りだという側面があるからでしょう(但し、もちろん制約はあり、「自由に創作できる」というようなことは他の仕事同様、滅多にありませんが)。

偉そうでろくでなしなヤツだったが天才的で真摯にジャケットを作り続けてきたトーガソン、そして相棒のパウエル、とにかく見たことも無いような新しいものを生み出してやろう!という熱さが時代と相まって吹き出したことを実感できる、とても胸熱なドキュメンタリーでした。

                                   「ROCK meets ART」(2001年7月31日 発行:有限会社ストレンジデイズ)

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冨貫功一
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