【出雲】出雲大社参拝の旅 ➄2015年10月単独、八大荒神社、出雲阿国墓所、出雲大社
稲佐の浜から、
出雲大社へ行く途中で、
こちらの神社に寄りました。
八大荒神社 玉依姫命
由緒の画像、お借りいたしました。
当時はありませんでした。
「八大龍王」とは!
わたしも、この八大龍王とは
関係があります。
知らずに寄っていたということですね。
上の方に、奉納山公園と、
出雲手斧神社が鎮座していますが、
時間の関係上、寄りませんでした。
10月でしたので、
秋のうろこ雲がきれいでした。
ピラカンサや、ツワブキ
安土桃山時代の女性芸能者。
ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを
創始したことで知られており、
このかぶき踊りが様々な変遷を経て、
現在の歌舞伎が出来上がったとされる。
踊りの元祖は、天岩戸伝説、
天宇受売命のことでしょう。
「日本書紀」では、
アマテラスとスサノオの誓約の前、
スサノオが高天原に昇ってくるのを
アメノウズメが見つけ、
日神(アマテラス)に報告しました。
岩戸隠れで天照大御神が
天岩戸に隠れて
世界が暗闇になったとき、
神々は大いに困り、
天の安河の川原に集まって会議をした。
思金神の発案により、
岩戸の前で様々な儀式を行いました。
『古事記』では、
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、
神懸かりして胸乳かきいで
裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に
押し垂れき。」とあり、
その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、
戸を少し開けた天照大神に
「あなたより尊い神が生まれた」と
ウズメは言って、
天手力男神に引き出して貰って、
再び世界に光が戻りました。
天孫降臨の際、
邇邇芸命(ににぎ)が
天降ろうとすると、
高天原から葦原中国までを
照らす神がいた。
アメノウズメは
天照大御神と高木神に、
「手弱女だが顔を合わせても
気後れしない(面勝つ)から
あなたが問いなさい」と言われた。
この時のアメノウズメは
『日本書紀』では
次のように記述されている。
「その胸乳をあらわにかきいでて、
裳帯(もひも)を
臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、
あざわらひて向きて立つ。」
つまり、乳房をあらわにし、
裳の紐を臍の下まで押したれて、
あざわらいながら
向かって言ったとある。
その後、名を問い質すと、
その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、
道案内をするために
迎えに来たと言った。
アメノウズメは
天児屋命(あめのこやね)、
布刀玉命(ふとだま)、
玉祖命(たまのおや)、
伊斯許理度売命(いしこりどめ)と
共に五伴緒の一柱として
ニニギに随伴して天降りした。
アメノウズメは
猿田毘古神の名を明かしたことから
その名を負って仕えることになり、
猿女君の祖神となった。
一説には猿田毘古神の妻と
なったとされる。
アメノウズメは
猿田毘古神を送って
日向国(または志摩国)に帰った後、
大小の魚を集めて
天孫(邇邇芸命)に仕えるか
どうか尋ねた。
みな「仕える」と答えた中で
ナマコだけが何も答えなかったので、
アメノウズメは
その口を小刀で裂いてしまった。
それでナマコの口は裂けている。
アメノウズメの功績により、
代々の天皇は志摩国から
新鮮な海産物が献上される時は、
猿女君に与える。
ウィキペディアより
「かぶき」とは、「傾く」ー「かぶく」
突拍子もない、常識離れしている、
という意味です。
出雲阿国は、1590年ごろ、
出雲大社の巫女で、
修繕のために全国を渡り歩いて、
評判となったという話もございます。
懐かしい風景です。
大社の関係者の方々には、
申し訳ありませんが、
このうさぎの像、
置いてほしくなかったです。
現在も、
境内のあちらこちらにありますが、
やはり、出雲大社は、国宝であり、
こうして置くのは、
人間のエゴとしか見えず。
子だくさんのご利益とか、
危険回避であるとか、
言われていますが、
テーマパークでもないですし、
大社は、
自然の中にあってこそ、なので、
わたし的には、
ガッカリしてしまいました。
ゴメンナサイ。
2015年の当時です。
参道のほうに出ました。
実は、当時、
わたしはこの橋のあたりで、
前のめりに転びました。
それが、背中から、
誰かに強く押されまして、
すぐに振り向いたのですが、
誰一人いなかったんです。
とっさに、
「わたしに憑いていた、
お厄も邪鬼もすべて落ちました!
素戔嗚尊さま、
ありがとうございます!」と、
手を合わせました。
どおりで、ここまでの間、
仙台からずっと、
背中が非常に重かった。
転んで、その後の足取りが
軽かったのには、驚きました。
だいたい、皆様、左側通行です。
真ん中にいる人がいますが、
正中、神様の通り道です。
その場所にいては、行けません!
八重のサザンカ
2015年当時。銅鳥居は、工事中でした。
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