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【出雲】出雲大社参拝の旅 ⑬2015年10月単独、日御碕神社 摂社、末社
日御碕神社の神紋、三ツ柏も
これに由来し、
神域の付近からは柏の葉を印した
「神紋石(ごもんせき)」と称される
化石も出土しています。
稲荷神社
型は小さいですが、
この足の太さと大きさ!
大地を踏みしめている感じが、
力強いですね!
御井神社
荒祭宮
正面、宝庫と、十九社の摂末社
日和𥔎社、秘臺社、曾能若姫社、
意保美社、大山祇社、大土社、
波知社、中津社、摂社立花社、
宇賀社、窟社、眞野社、大野社、
加賀社、問社、坂戸社、若宮社、
大歳社、八幡社
荒魂神社 宝庫の裏手
蛭児神社
韓國神社
素戔嗚尊さまと、五十猛神さま
日本書紀では、
天(『古事記』では高天原)を
追放された素戔嗚尊とともに
新羅曽尸茂梨に天降り、
スサノオが
この地吾居ること欲さず
(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と
言ったので、
一緒に埴土船で渡って
出雲斐伊川上の鳥上峯に至った
とあります。
出雲国風土記によりますと、
朝鮮半島の新羅(しらぎ)という
国の余った土地を
素盞嗚尊が出雲に引っ張ってきたという。
この裏手の山を、
韓國山(かんくにやま)というそうです。
宗像神社 宗像三女神さま
経島
伝説では、
天葺根命(アメノフキネノミコト)が
経島にいた時、天照大御神が降臨し、
「吾はこれ日ノ神なり。
此処に鎮りて天下の人民を恵まん。
汝速かに吾を祀れ」との
勅命を受けて
経島に鎮座したと伝えられています。
古くは日御碕神社の下之宮があった。
現在でも、年一度の
神事に携わる神職などのほかは
上陸が禁じられています。
海底遺跡があることが知られています。
日御碕神社の夕日の祭りがある
経島の西のタイワと呼ばれる
海底の丘には、
頂上に通じる参道の様な地形があります。
また、経島は、
ほぼ夏至の日没の方向に位置しています。
ということは、
冬至の日の朝日が、
経島を照らすことになりますね。
下記の写真からですと、
熊野那智神社が、レイライン上!
写真出典
写真出典
記載はないが、
夏至の日の出の位置にある神社は、
何だろうか。
福島県南相馬市か、
双葉町か浪江町か、?
実は、新羅に関わる
伝説のある神社がありました。
しかし、東日本大震災の大津波で、
大破して、海に流出してしまいました。
苕野神社(くさの)がありました。
ご祭神は、
高龗神・闇龗神、
五十猛神、大屋津姫神・抓津姫神を祀る。
苕野神社は
往古は請戸地区の沖にあった
「苕野小島」という島に鎮座していた
という。
なかに、このような伝説が
残っていたそうです。
新羅国の女神説
元禄年間に藤橋月船という者が記した
「標葉記」によれば、
古老の話では、
苕野の神は新羅国からやってきて
請戸の小島に現れた女神であるという。
この時初めて、
阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、
阿部氏は特に何もしなかったが、
荒氏は小島に社を設けて女神を祀った。
その後、保元年間にいたり、
標葉氏の祖である平隆義が
標葉郡を領有するようになると、
請戸明神を鎮守神と定め、
社領の寄付や社殿の修繕を行い
代々篤く崇敬したという。
今は、この御社はありません。
今が震災前なら、
参拝してみたかったです。
売店で、スルメ購入しました!
すごく美味しかったです。
今は、イカが、温暖化で
獲れなくなりました。
今でも、販売しているのかしら。
だんだん、波が荒れてきました。
稲佐の浜
急ぎ足の出雲旅。