【あいさんの開運参拝方法】住吉大社の歩き方 この開運参拝順で運氣を掴んだ!あいさん方式① 本宮の周り方
住吉大社は、2015年から毎年、
参拝するようになりました。
それは、
2014年8月
主人が、直腸ガンを宣告され、
抗がん剤、放射線治療を最初に、
東北大学病院で施され、
12月に内視鏡にて
切除術となったからです。
もちろん、その年の5月に、
いつものように大阪へ行っており、
7月に、山形県の月山登拝も
しております。
実は、月山登拝の下山途中で、
金剛杖が折れるという現象が起き、
翌8月に宣告されました。
ご先祖さまが異変を
教えてくださったのです!
再発しないように祈願するには、
どこで参拝したほうがよいのだろうか。
そう思った時、いの一番に、
住吉大社が浮かんだのです!
住吉大社は、男の三兄弟の神様。
これは参拝しなくてはならない!
それで、2015年から毎年、
始まったのでした。
こちらで使用する写真は、
2014~2019年に撮影されたものを、
散りばめて使用させていただきます。
特に、2019年は、
令和 天皇陛下御即位奉祝行事で、
たまたま、住吉大社に参拝が叶いました。
あべのハルカスの下、
ペデストリアンデッキから、
阪堺電車へ乗り込みます。
住吉大社は、住吉鳥居駅です。
前日は、雨模様でしたが、
こんなに晴れ渡りました。
2019年5月2日
天皇陛下御即位奉祝ムードの、
住吉大社です!
角鳥居から続く参道では、
角鳥居前の池に
反橋(そりはし)が架かる。
「太鼓橋」とも称され、
住吉大社を象徴する橋になる。
高さは4.4メートル。
鎌倉時代の『諸神事次第記』にも
橋の記述が見える。
現在の橋は昭和56年(1981年)の
造営によるものであるが、
石造の脚・梁部分は
慶長年間(1596-1615年)の造営になり、
豊臣秀頼によるものとも、
淀殿の寄進によるものとも伝わる。
反橋を舞台にした作品として
川端康成の小説『反橋』がある。
なお、この反橋付近までは
かつて海であったといわれ、
反橋が架かる池については
古代の潟湖(ラグーン)の痕跡とする
説がある
「(住吉大社と兎)
兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が
神功皇后摂政十一年(211)
辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である
御縁により奉納されたものです」
4本宮の外周に巡らされた瑞垣には、
西側に幸禄門(西北面)・
幸壽門(幸寿門、西面)・
幸福門(西南面)の3門が開く。
そのうち第三本宮正面の
幸壽門の門前には
角鳥居(かくとりい)が建てられている。「角鳥居」の名は
柱が四角柱であることに由来し
(本宮の渡殿内にある鳥居も同様の柱)、
その独特な形式により
「住吉鳥居」とも称される。
扁額の「住吉神社」は
有栖川宮幟仁親王の筆。
見えていますのは、第三、第四本宮。
ですが、
地元慣習では、
第一本宮から、順に参拝します。
ここ大事です。
本殿は4棟とも
江戸時代後期の文化7年(1810年)の
造営。
「住吉造(すみよしづくり)」と
称される独特の様式で、
神社本殿としては
神明造・大社造・大鳥造と並んで
飛鳥時代まで遡る最古様式に
位置づけられる。
屋根は反りがなく直線的で、
屋根上には千木(ちぎ)と
鰹木(かつおぎ)が乗る。
鰹木の数は4棟とも5本であるが、
千木は第一本宮から第三本宮は
外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)、第四本宮は内削ぎ(水平に削る)
各本殿の前面には渡殿(わたりでん)
・幣殿(へいでん)が建てられており、
いずれも本殿と同様に
江戸時代後期の文化7年(1810年)の
造営である。
第一本宮の幣殿は
中世には存在したとされる一方、
第二・第三・第四本宮の幣殿は
慶長造替以後の設置とされる。
国宝。
第一本宮
底筒男命(そこつつのおのみこと)
伊邪那岐命と伊邪那美命は
国生みの神として大八島を生み、
またさまざまな神を生んだが、
伊邪那美命が
火之迦具土神を生んだときに
大火傷を負い、
黄泉国(死の世界)に旅立った。
その後、伊邪那岐命は、
黄泉国から伊邪那美命を
引き戻そうとするが果たせず、
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、
黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。
このとき、
瀬の深いところで底筒之男神が、
瀬の流れの中間で中筒之男神が、
水表で上筒之男神が、
それぞれ生まれ出たとされる。
その筒男三神について
『日本書紀』では
「是即ち住吉大神なり」、
『古事記』では
「墨江の三前の大神なり」とする。
2016年の時。挙式を斎行されていました。
第二本宮
中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮
表筒男命(うわつつのおのみこと)
楯社
鉾社
第四本宮
神功皇后(じんぐうこうごう) -
名は「息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと)」。
第14代仲哀天皇皇后
神功皇后の朝鮮出兵の場面で、
住吉神の神託もあって
皇后の新羅征討が成功したとする。
特に『日本書紀』では、
住吉神は皇后の朝鮮からの
帰還に際しても神託したとし、
それにより住吉神の荒魂を祀る祠が
穴門山田邑に、
和魂を祀る祠が
大津渟中倉之長峡に設けられたとする。
また『住吉大社神代記』では、
筑紫大神が神功皇后に
我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう
宣託を下したので、
穴門直の祖である踐立が
住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、
和魂を津守の祖である
手搓(田裳見宿禰)が
大津渟中倉之長峡の祠(当社の地)に
祀ったとある。
侍者社(おもとしゃ) 末社
祭神:田裳見宿禰、市姫命。
例祭:2月5日
大神様にお供えする前に
検視を願いその後、
本宮にお供えするという
侍者先祭の故実がありました。
また、初代神主田裳見宿禰を顕彰して、
住吉大神の最も御傍にて祀ることから、
侍者(おもと)と称したのではないかと
されています。
近年では「神と人」を結ぶ、
仲執り持ちの役目を担ったことから、
縁結びの神として
篤く信仰されています。
次は、種貸社のほうへ行きます。
左側の門です。
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