【岩手】丹内山神社 アラハバキ大神の巨石 2017年7月
花巻市、早池峰山の登山口、
早池峰神社から、
東和町の丹内山神社にやってきました。
丹内山神社の裏手から、入りました。
丹内山神社には、七不思議があります。
追って、ご紹介いたします。
御神木爺杉の根株
この杉の根株は、根元回り12.12m、
高さ約60m、樹齢2000年の古木と
伝えられています。
大正二年、延焼により焼失しましたが、
その根株を保存しています。
相殿、祖霊社、観音堂
(木造十一面観音立像)
身震いするほど、すごい御神気です。
言葉もありません。
源義家公、弓射場跡
丹内山神社
多邇知比古神(たにちひこのかみ)
天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)
高御産日神(たかみむすびのかみ)
神御産日神(かみむすびのかみ)
宇麻阿志訶備比古遅神
(うましあしかびひこぢのかみ)
夫之常立神八十八座
この神社の創建年代は、約1200年前、
上古地方開拓の祖神、
多邇知比古神を祭神として祀っており、
承和年間(834~847)に
空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、
以来、神仏混淆による尊崇をうけ、
平安後期は平泉の藤原氏、
中世は安俵小原氏、
近世は盛岡南部氏の郷社として
厚く加護されてきたと伝えられる。
さらに、明治初めの廃仏毀釈により
丹内山神社と称し現在に至っている。
この本殿は、現存の棟札によると、
文化七年(1810)に再建されたもので、
盛岡南部利敬公の代、
当時の別当は小原和泉實吉であり、
棟梁には中内村の吉重郎、
脇棟梁には八重郎・宇吉が
造建にあたったことが知られる。
この建造物の特徴として、
本殿の内陣には、権現づくりの厨子が
据えられており、
正・側面の外壁一面に
中国の古事や古事記・万葉風の彫刻、
脇障子は唐獅子と牡丹が彫刻されている。
県内の社寺建造物の内では
彫刻装飾優位の建物で、
当時の地方大工の力量を
知ることのできる貴重なものであり、
平成二年五月に
県指定有形文化財(建造物)となっている。
又、本殿の左側山頂付近の
経塚(県指定史跡)から
全国でも数個しかないと云われる
影青四耳壺(白磁無紋の壺、北宋の花瓶)、湖州鏡、中国古銭、経筒など
(県指定文化財)が出土しており、
平安時代末期頃からの
地域の優れた文化の跡が偲ばれる。
下から眺めると、迫力ある、
アラハバキ大神の巨石です!
御神気、凄過ぎます!
鳥肌が立ちました。
千三百年以前から
当神社の霊域の御神体として
古から大切に祀られている。
地域の信仰の地として栄えた当社は、
坂上田村麿、藤原一族、物部氏、
安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く
領域の中心的祈願所であった。
安産、受験、就職、家内安全、
交通安全、商売繁盛の他、壁面に
触れぬよう潜り抜けると
大願成就がなされ、
又触れた場合でも合格が叶えられると
伝えられている巨岩である
わが宮城県にもある、
多賀城跡の東北に、荒脛巾神社。
多賀城とは、
奈良・平安期の朝廷が
東北地方に住んでいた蝦夷を
制圧するために築いた拠点で、
国府多賀城の政庁跡があります。
その北東に、
陸奥総社宮、アラハバキ神社があります。
朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は
「蝦夷をもって蝦夷を制す」であり、
もともと蝦夷の神だったのを、
多賀城を守るための塞の神として祀って
逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。
また、衛視の佩く脛巾から
アラハバキの名をつけたともいっている。
と、あります。
飲水はできませんが、いただいて、
敷地に撒きました。
あまりに、異次元。
不思議な神社さんでした。
宮沢賢治
『文語詩「祭日〔一〕」は、
丹内権現(丹内山神社)の祭りの
賑わいぶりを詠った作品で、
宮沢賢治の死の一ヶ月前に浄書を終えた
「文語詩稿百篇」の中に収められて
います。
詩碑は
花巻市谷内の郷土史家であり
賢治研究家の小原昇氏によって、
地元の書家である菅清峰氏の揮毫を刻し、
平成11年11月吉日に、
丹内山神社表参道正面鳥居の傍らに
建立された。
なお、同じ題名の「祭日〔二〕」は、
花巻市東和町北成島の
毘沙門堂を詠っている。』
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