【ルーツ】ルーツ探しの発端② 不思議な出会いと修験道
そういえば、わたしが25歳の時だった。
ある神社に行ったとき、
後から声をかけられました。
「ちょっとスミマセン。
あなたの背中に赤い鳥居が見えますよ。
鳩の絵、ああ、八幡神社だね。
あなたは前世、●●八幡神社の巫女で、
生涯独身だったよ」
振り返ると、地元では有名な霊媒師で、
当時、婦人公論など
昔の雑誌にも掲載されたり、
全国版のテレビに出たりした、
すごい人だった。
全国にファンもいたくらいだ。
「前世の名前は、●●さん。
あなたは働くような人ではない。
わたしのところで修行しないか」
その時は、やんわりと、
お断りいたしました。
その●●八幡神社とは、
実際に仙台に鎮座しています。
それがその後、
主人と結婚して、義姉が、
その神社の直系と結婚していたことを知り、
驚きました。
結婚後、しばらくして主人の親戚から、
主人の家系に、
出羽三山、羽黒山山伏がいたことを
知ります。
しかし、そんなことを知る前から、
わたしは、ある神社さんのツアーで
出羽三山の月山に登拝していました。
出羽三山との関わりがあったのです。
その間も、街で知り合った、
おじさんのおかげで、
出雲大社に何度か参拝しているうちに、
出雲大社は、まるで
神仏習合がまだ残っているかのような
神社で、
講話では、ご先祖さまの話が出たり、
寺の説教のような話も出たり、
不思議に感じていました。
修験道とは、なんだろう。
わたしの中に、湧いてきました。
特に、修験道に目がいったのは、
出雲大社の仮殿遷座祭に出席した翌日、
奈良県の吉野山竹林院に宿泊し、
翌日、修験道の開祖、
世界遺産、金峯山寺蔵王堂に
正式参拝したときです。
わたしは、御堂に入るなり
大泣きいたしました。
すると、そばにいた見知らぬ女性が、
「奥さん、どこからいらっしゃったの?」
「仙台です」と、答えますと、
「あら!仙台なら素晴らしい和尚さんが
いらっしゃるじゃないの!
この金峯山寺で修行された、
塩沼さんがいらっしゃるじゃないの!」
地元なのに、知りませんでした。
秋保にある、慈眼寺。
ご住職の塩沼大阿闍梨さまは、
この金峯山寺で修行された方です。
「この世にこのような人がいるのだろうか。
まるで、五月の風のような人だ」
これが、わたしが最初に、
塩沼大阿闍梨さまにお会いした時の
感想です。
このことを聞いた、
平成20年、2008年5月に、
毎週日曜日に、
護摩修法をされていることを知り、
早速参拝して、
護摩祈祷していただきました。
それから、なんと、5年間、
毎週日曜日に通い、
護摩修法の中で、皆様と一緒に、
般若心経とご真言を唱える場面があり、
唱えていきました。
また、そのあとの説教も素晴らしいんです。
わたしの気持ちも変えていきました。
と、同時に、
奈良吉野山の、金峯山寺には、
毎年4月に、参拝に伺い、
ご本尊さまの、
金剛三体蔵王権現さまを拝しました。
特に、この金峯山寺に毎年、
通うようになったのは、
境内、谷底に、
「脳天さん」と呼ばれる、
龍王院、脳天大神さまへの参拝も
兼ねておりました。
平成20年の
出雲大社、仮殿遷座祭の翌々日に、
この金峯山寺蔵王堂に参拝した時、
ツアーでご一緒した方から、
「脳天さん」の存在を知ることに
なりました。
この当時、わたしは、数年、
甲状腺機能低下症、いわゆる、
橋本病に悩んでいました。
「脳天さん」は、
首から上の病の大神さまで、
龍神さまの口から、
滔々と流れる湧き水を飲んで、
願掛けすると、病に効果があるという。
ツアーの際は行けなかったのですが、
翌年、単独で、仙台から吉野山へ行き、
参拝を果たしました。
空のペットボトルを持っていき、
2リットル分、詰めて、リュックに背負い、
仙台まで持ち帰っていました。
神棚にお供えしてから、
その水をいただき、
病気の軽減を願いました。
すると、3か月後、定期健診で、
甲状腺ホルモン数値が格段に良くなり、
その時から、服薬はなくなりました。
しかし、今も、
1年に一度の定期健診はございます。
それは、いつ悪化するともわかりませんし、
何より、ホルモン剤を服用した、
ということは、
いずれ、
ガン化することもあり得るからです。
しかし、こうして服用もせず、
安定しているのは、
脳天さんのおかげでございます。
感謝の念に堪えません。
こうして、コロナ禍で、
2009年から、
11年間続いていた、奈良吉野山参りは、
昨年、今年と行けずじまい。
残念なことです。
それでも、毎年、
脳天さんの、5月19日の例大祭には、
ご祈祷などお願いしております。
たとえ、行けなくても、
繋がっている感謝を表し続けています。
金峯山寺蔵王堂の入り口に、
「後醍醐天皇導きの稲荷さま」が
鎮座しています。
二天門があったとされる場所にあり、
「北朝方との対立が激しくなって、
やむをえずひそかに
京都の花山院を脱出した後醍醐天皇は、
延元元年(1333)12月28日
吉野山の行宮(仮の宮)に
着くことが出来た。
途中夜道に迷ったとき、
とある稲荷社の前で、
むば玉の暗き闇路に迷うなり
我にかさなむ三つのともし火
と詠むと、ひとむらの紅い雲が現れて、
吉野への臨幸の道を照らし導きし、
その雲は金の御岳(吉野山)の上で
消え失せたという。(吉野拾遺)
その稲荷を勧請したのが
この「導きの稲荷」です。
人々の心に迷いがあるとき、
この神にお祈りすると、
おのずから道が開けるという
言い伝えがあります。
毎年12月8日例祭が
行われて賑わいます。
わたしは、
2009年に単独で参拝した折、
この導きの稲荷さまに、
「わたしは子どもの頃から
苦しい思いをしてきました。
この人生が180度、変わるならば、
毎年、元気なうちは
参拝することをお約束します。」と、
祈願いたしました。
ほどなくして、その願いは叶いました。
だから神様にウソはつけません。
毎年、伺いました。
しかし、このコロナ禍。
「絶対」という言葉はないのだと
教えられたような気がいたします。
すべては、こころが、
そこに寄り添っているかどうか。
収束すれば、必ず、参ります。