あぁ、なんと醜い美しさ
ノートルダム大聖堂が焼けたと聞いて、
僕が思い出したのは小さい頃
「ノートルダムの鐘」を見た記憶であった。
容姿が醜い主人公カジモドは、
あの話の最後に、真に報われていたのだろうか。
僕はパリ行きのバスの中、そんなことを考えていた。
(2019年5月25日 ノートルダム大聖堂①)
(5月25日 ノートルダム大聖堂②)
(5月25日 セリーヌ川沿いのイラスト)
(5月25日 セーヌ川)
(5月25日 ルーブル美術館前)
(2019年5月26日 ローランギャロス前)
(5月26日 凱旋門)
(5月26日 エッフェル塔)
以下は5月25日
ルーブル美術館内で撮影した展示物である。
ミロのヴィーナス:アレクサンドロス
⚠️作者は諸説ある。
モナ・リザ:レオナルド・ダ・ヴィンチ
岩窟の聖母:レオナルド・ダ・ヴィンチ
洗礼者聖ヨハネ:レオナルド・ダ・ヴィンチ
浴女:ドミニク・アングル
民衆を導く自由の女神:ドラクロワ
トルコ風呂:ドミニク:アングル
ゼウクシスとクロトンの娘達:ヴァンサン
マダム・パスツール:ジャン・グロス
失われた幻影:シャルル・グレール
・
よく耳にする言葉で、
「美しい」は人の心を指す。とある。
それでは、絵画や建築物を見て感じる美しさは何か。
僕はこれらを美しいと感じるのと同時に、
見ている物はこれらの心では無いと断言もできる。
絵画に表現されているものが心だとは思えない。
描かれている物は描かれた通りにしか受け取れない。
・
美しさとは何か。
もちろん人の優しさに触れて、
その人柄を美しいと思うのも間違いだとは言わない。
カジモドは目に見える部分は醜いが、
勇気や優しさ、つまり人柄は美しいのだろう。
しかし、
カジモドが必死に心の中を教えても、
容姿を忘れてくれるわけではないのだ。
**
美しさにはどうやら
感覚的なものと意味的なものがあるようだ。**
・
彼の求めたものは、
絵に描いたような感覚的な美しさではなかったのか。
容姿が醜いままのカジモドは、
あの話の最後に、真に報われていたのだろうか。
僕は帰りのバスの中も、そんなことを考えていた。
2020年5月27日
なおと
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