パソコンはいかにして発明されたのか
コンピューターの商業化
時代は少し前後します。1946年3月31日、ジョン・プレスパー・エッカートとジョン・W・モークリーはムーア・スクールを退職しました[45]。知的財産権の放棄を迫られたからです。彼らの経歴なら、他の大学やIBMなど再就職先には困らなかったでしょう。しかし、2人はビジネスパートナーとなり、エレクトロニック・コントロール・カンパニーを創業しました。1948年12月には株式会社化し、社名をEMCC(エッカート・モークリー・コンピューター・カンパニー)に改めました。彼らはコンピューターの商業化に踏み切ったのです。
1951年3月30日に完成したUNIVAC(ユニヴァック)は、汎用電子コンピューターとしては世界初の製品です。当初、主な顧客は政府機関であり、記念すべき第1号機はアメリカ国勢調査局に納品されました。彼らは翌年にかけてさらに2台を納品し、3台を受注しました[47]。
(※なお、EMCCの資本は貧弱であり、キャッシュを得るためにBINACという製品をUNIVACに先んじて作らざるをえなかった[46]。ノースプロップ航空の発注で1949年に納品されたBINACは、世界初の商用コンピューターと呼ばれる。しかし性能・機能ともに制限が多く「汎用」とは呼び難い製品だった。)
(※これに先立つ1950年、資金難からEMCCはレミントン・ランド社の子会社となった[48]。これは事務機器メーカーの吸収合併により生まれた大手企業で、源流の1つには銃火器で有名なレミントン社のタイプライター事業部門がある。人間の筆耕人は毎分25語を書けるが、これに匹敵する速さタイプライターが登場したのは1870年代だった。レミントン社は1874年にタイプライターを発売し、1890年代には年間2万台を製造していた。現在のキーボードのQWERTY配列はレミントン社の発明である[49]。)
UNIVACを一躍有名にしたのは、1952年アメリカ合衆国大統領選挙の開票速報です[50]。モークリーはペンシルヴァニア大学の統計学者の助けを借りて、過去の投票パターンから、ごくわずかな開票率でも選挙結果を予想できるプログラムを書き上げたのです。UNIVACによる選挙予想はCBSの放送網で全国に放映されました。
UNIVACがドワイト・D・アイゼンハワーの地滑り的な勝利を予想したとき、モークリーら関係者は落胆しました。ギャロップやローバーといった従来の世論調査では、アドレー・スティーブンソンの勝利が予想されていたからです。しかし夜が深まるにつれ、落胆は歓喜に変わりました。アイゼンハワーの勝利が確実になっていったからです。実際の選挙結果はアイゼンハワー対スティーブンソンが442対89だったのに対し、UNIVACの予想は438対93でした(※モークリーの書いたプログラムの精度にも驚かされる)。
この開票速報によって、一夜にして(技術者だけでなく)アメリカ人の誰もがコンピューターの存在を知りました。UNIVACはコンピューターの代名詞になりました。
なお、UNIVACのプログラミングにも、やはりグレース・マレー・ホッパーが携わっていました。彼女はハーバード・マークⅠのチームから引き抜かれたのです[51]。ホッパーの名前は、この後再び登場します。
IBMのトーマス・J・ワトソン・シニアには、様々な都市伝説があります。その1つが、ハーバード・マークⅠの完成を目前とした1943年に「世界のコンピューター市場はせいぜい5台くらいだろう」と発言した、というものです[52]。実際にはこんな発言はしていないらしいのですが、エッカートとモークリーが資金繰りで苦労したことからも分かる通り、1940年代にはコンピューター産業の将来は不明瞭でした。
(※ハーバード・マークⅠの開発者エイケンは、アメリカでのコンピューターの需要は5~6台だと考えていたようだ[53]。その逸話が、ワトソンの発言として誤って広まったのかもしれない。)
とはいえIBMも、電子計算機の発展を座して眺めていたわけではありません。ワトソンは早くも1943年10月には、優秀な電子工学者を見つけて雇うようにと指示を出していました[54]。
(※余談だが、レミントン・ランド社の出資を受ける直前、エッカートとモークリーはIBMにもEMCCの子会社化を打診していた。ワトソンは興味を示したが、独占禁止法に阻まれて実現不可能だった[55]。)
さらに1947年にはCPC(Card Programmed Calculator)、1948年にはSSEC(Selective Sequence Electronic Calculator)という「スーパー計算機」をIBMは完成させました。
興味深いのは、これら初期のIBMのコンピューターが「計算機/Calculator」と名付けられていたことです。当時の「Computer」は、人間の計算手のことでした。新しい技術により失業が生じるという懸念を持つ人からの批判を、ワトソンは避けようとしたのです[56]。
1952年12月、「国防計算機」の別名でも知られるIBMのモデル701が完成しました。これは科学計算用の汎用電子コンピューターで、UNIVACの競合製品でした。1953年9月には、IBMはビジネス用途のデータ処理向けにモデル702を発表。さらに、比較的安価だったモデル650は2000台が売れて、フラッグシップモデルである700シリーズよりも多くの収入をもたらしました[57]。
(※モデル650は701の4分の1ほどの価格設定だったが、それでも月額レンタル料3250ドル、買い上げで20万ドルの超高額製品だった。)
1956年、トーマス・J・ワトソン・シニアが引退し、長男であるジュニアが社長に就任しました[58]。しかしIBMの快進撃は止まりませんでした。
映画『デスク・セット』は1957年に公開されたロマコメ映画です[59]。とある企業にコンピューターを導入しに派遣されたエンジニアが、それに抵抗する現場社員のヒロインと恋に落ちるというあらすじ。ヒロインは当初、コンピューターを自分や同僚の仕事を奪う存在として敵視しますが、やがて恐れるに足らない愛すべきものだと理解します。この映画にIBMは全面的に協力しており、そのロゴがたびたび画面に映ります。コンピューターは退屈な作業をなくす道具であり、人間を失業させるものではないのだと、IBMは宣伝したかったのです。当時の人々のコンピューターに対する反応をうかがい知ることができます。
プログラミング言語の起源
1950年代には、ソフトウェア産業も萌芽しました。
コンピューター産業の黎明期には、ハードウェア⇔ソフトウェアという概念の切り分けも不明瞭でした。計算機に価値ある仕事をさせるためには、優れたソフトウェアが欠かせません。しかし、それはハードウェアに(いわば)バンドルして一緒に納品されていたのです。また、この時代の顧客は政府機関や研究所であり、大抵の場合、必要であればソフトウェアを自力で開発できる人材を抱えていました。
世界初の独立したソフトウェア開発請負会社は、1955年3月に設立されたCUC(Computer Usage Company)だとされています[60]。創業者はIBMの科学計算プログラム部門のOB2人で、4人の女性プログラマーとともに事業を開始しました。最初の売上が入金されるまで、彼女たちは創業者の1人のアパートで仕事をしたそうです。現代のスタートアップ企業でもしばしば見かける光景です。
現在では、ソフトウェア開発と「プログラミング言語」の関係は切っても切り離せません。その歴史はケンブリッジ大学のEDSACにさかのぼります[61]。
コンピューターの内部では、あらゆる情報と命令がバイナリ(0と1の羅列)で扱われています。これを機械語と呼びます。EDSACでは、たとえば「メモリの25番地の整数を加えよ」という命令は次のように表現されていました。
11100000000110010
これを人間が読んで理解するのは容易ではありません。EDSACの開発者たちは、これを簡単な記号に置き換えてプログラムを作成していました。「メモリの25番地の整数を加えよ」という命令ならば、次のように書きました。
A 25 S
「A(Add/加えよ)」「25(番地)」「S(Short/整数)」の略です。
こうした工夫は、フォン・ノイマンやゴールドスタインたちEDVACの開発者たちも行っていました。しかし当初、このような記号をバイナリの機械語に変換する作業はプログラマー本人か、その下で働く「コーダー」の仕事だと考えられていたのです。
ケンブリッジ大学の20代の研究員ディヴィッド・ウィーラーは違いました。記号をバイナリに変換する作業そのものを、コンピューターに行わせればいいと気づいたのです。
ウィーラーと仲間たちは1948年から1951年にかけて「イニシャルオーダー」という小さなプログラムを書きました。彼らは、研究者たちの使う記号言語から、自動的に機械語で書かれたプログラムを生成することを可能にしたのです。
このような「自動プログラミング」を行うプログラムのことを「コンパイラ」と呼びます。
(※正確には、プログラム言語をまとめて機械語に「翻訳」し、その後に計算を実行するものをコンパイラと呼ぶ。これに対し、プログラム言語を1行ずつ機械語に「通訳」して、その都度計算を実行するものをインタープリタと呼ぶ。)
アメリカで最初の「自動プログラミング」が行われたマシンは、おそらくUNIVACです。本章でたびたび登場しているグレース・マレー・ホッパーが、「A-0」および「A-1」というコンパイラを開発したのです[62]。「コンパイラ」という用語そのものが、ホッパーの発案でした[63]。彼女はさらにビジネス向けの「B-0」というコンパイラを作り、こちらは「FLOW-MATIC」や「MATH-MATIC」という名でも呼ばれました[64]。
残念ながら、これら最初期のコンパイラは動作が遅く、さほど実用的ではなかったようです。
そのため1954年にIBMでプログラミング言語の開発が始まったときも、社内ではほとんど期待されていませんでした[65]。このプロジェクトを主導したのはジョン・バッカスという20代の研究者で、チームに与えられた部屋は本社別館の「19階でエレベータ機械室の横」だったそうです。2年半におよぶ苦闘の末、彼らは1957年4月にモデル704向けのプログラミング言語「FORTRAN(フォートラン)」を完成させました。
FORTRANは成功した言語の1つで、現在でもアップデートが重ねられています(※この原稿を執筆している時点での最新版はFORTRAN 2023。)。とくに科学技術計算の分野で、広く使われています。FORTRANがこれほど成功した理由の1つは、IBMがコンピューター市場を長らく寡占していたことでしょう。しかし、それだけではありません。FORTRANのコンパイラは「人間によって書かれたコードと同じくらい効率的で速い」機械語を生成できたのです[66]。
興味深いことに、1950年代にはコンパイラの使用を嫌がるプログラマーも珍しくなかったそうです[67]。プログラマーという職業そのものが誕生から10年も経っていなかったにもかかわらず、彼らはジェニー紡績機を叩き壊した18世紀の紡績工のような反応を示したのです。
一方、グレース・マレー・ホッパーは何年にも渡って地方講演を繰り返し、自動プログラミングの利点を喧伝しました。これも彼女の功績の1つです。
1959年末、アメリカの国防総省から「COBOL(コボル)」というプログラミング言語の仕様書が公表されました[68]。科学技術計算の分野で普及し始めていたFORTRANに対し、こちらはビジネス向けの共通言語を目指していました。COBOLの源流の1つはホッパーの開発した「B-0」です。また、まるで普通の英単語のような命令文を用いることも、ホッパーの思想の影響を受けています。コンピューターの専門家でなくても、まるで自然言語のように読み書きできることがCOBOLの理想でした。現代のChatGPTにも繫がる「コンピューターと対話する試み」は、この時代には始まっていたのです。
FORTRANと同様、COBOLも成功した言語です。現在でも、金融機関ではCOBOLで書かれたシステムが珍しくありません。ATMで現金を下ろすたびに、私はホッパーに感謝せずにはいられません。
1950年代の締めくくりとして、話をハードウェアに戻しましょう。 1959年、IBM 7094およびIBM 1401という製品が発表されました[69]。両者ともに、真空管ではなくトランジスタが使われた製品です。この頃にはトランジスタの信頼性が上がり、かつ価格が下がったため、真空管は時代遅れになりつつありました。IBM 7094は科学計算用途のマシンであり、IBM 1401は主にビジネス向けのデータ処理用途のマシンでした。商業上重要だったのは後者で、IBMのタービュレイティング・マシンを使っている場所ならどこでも代替できる製品でした。IBM 1401は1万台以上が売れました[70]。
こうして1960年までに、コンピューター産業は「IBMと7人のこびと」と呼ばれる状況になりました[71]。シェア第1位のIBMに比べて、2位以下――UNIVAC、バローズ、NCR、コントロール・データ、RCA、ハネウェル、ゼネラル・エレクトリック――のシェアが、あまりにも小さかったからです。(※ちなみにUNIVACを製造販売していたレミントン・ランド社は1950年代半ばにスペリー社に買収され、1960年にはスペリー・ランド社になっていた。)
そして、これでもなお、IBMの成功譚の序章にすぎなかったのです。
より人間的なコンピューターへ
現在では「コンピューター」という言葉から真っ先に思い浮かべるのはパソコンです。しかし1960年の時点では違いました。コンピューターはプライベートジェット機と同様の超高額製品で、個人用(パーソナル)コンピューターなど夢のまた夢でした。
当時のコンピューターは大抵、機能ごとにユニットに分割されて、金属製のキャビネットに収められていました。コンピューターの本体とでも呼ぶべき中央処理装置、磁気テープを読み書きする装置、パンチカードから磁気テープにデータを書き写すカードリーダー、計算結果を出力するプリンタ、そして、それらの制御卓――。こうしたユニットが空調の効いたタイル張りの部屋に並んでいたのです。このような大型コンピューターのことを「メインフレーム・コンピューター」と呼びます。
1950年代には「オペレーター」という職業がありました[72]。これら装置の間に立って、操作する仕事です。この時代、コンピューターを触らないプログラマーも珍しくありませんでした。プログラマーはコーディング・シートという原稿用紙にコードを書き、それをキーパンチ・オペレーターに渡すだけだったのです。オペレーターは、渡された原稿用紙をもとにパンチカードを作成し、それを機械にセットしてスタートボタンを押し、必要であれば磁気テープを交換し、プリンタから打ち出された計算結果をプログラマーに渡しました。
オペレーターの仕事はあまり専門知識を要求されず、非熟練労働者でも可能でした。そのため1960年代にはソフトウェアに置き換えられていきました。かつてオペレーターの行っていた仕事を代替するソフトウェアのことを、OS(オペレーティング・システム)と呼びます。
また、この時代のコンピューターは基本的に「バッチ処理」で利用されていました。人間の行動は秒単位ですが、電子部品はナノ秒単位で動作します。人間が考えをまとめるまでの時間やキーボードを打ち終わるまでの時間が、コンピューターの側から見れば計算を行っていない待ち時間になってしまうのです。当時のコンピューターは極端に高額だったため、わずかな待ち時間が発生するだけでも非経済的でした。できるかぎり24時間休まず計算を続けさせるために、一定期間のデータを集めて、まとめて処理を行っていたのです。
現代の私たちは、キーボードやタッチパネルを通じてリアルタイムでコンピューターに命令を与え、まるでコンピューターと対話するかのように処理を実行させています。パンチカードはもちろんCUIすらも過去のものになりつつあり、大抵の操作はGUIでこと足ります。このような現代的なコンピューターの利用方法が実現していった時代――。それが1960年代です。
1961年11月、MIT(マサチューセッツ工科大学)で世界初の「タイムシェアリング・システム」が発表されました[73]。それまで、大学のコンピューターは時間予約制で運用されていました。学生や教員は半時間~1時間単位で使いたい時間を予約して、プログラムを実行していたのです。もしも時間内に(プログラムのエラー等で)望みの計算結果を得られなかった場合、予約を取るところからやり直しでした。
これを解決する方法として考案されたのが、タイムシェアリングです。1台のメインフレームに複数の入出力端末を繋ぎ、多人数で同時に利用するシステムです。ユーザーが考えたりキーボードを打ったりしている「待ち時間」の間に、他のユーザーから命令された処理を実行してしまおう、という発想でした。
世界初のタイムシェアリング・システムは、わずか3台の端末が接続されているだけでした。それでも1人ひとりのユーザーには「コンピューターを占有している」かのような体験を与えたのです。タイムシェアリングはその後10年以上、重要な技術であり続けました。
1963年には、アメリカの半自動式防空管制組織「SAGE(Semi-Automatic Ground Environment)」が完全稼働しました[74]。防空システムの目的は、レーダーに映った敵国の航空機をいち早く見つけて爆撃を阻止することです。当然、(バッチ処理ではなく)リアルタイム処理が必要です。
SAGE開発史は、1949年8月にさかのぼります。ソビエト連邦が原爆実験に成功したという情報が、スパイを通じてアメリカに届いたのです。米国本土を攻撃可能な長距離爆撃機をソ連がすでに有していることも明らかになりました。しかし当時のアメリカの防空システムは貧弱で、1950年の時点で「足が不自由で、目もあまり見えず、頭もよくない」と評されました[75]。だからこそ、十年以上の歳月をかけて新たな防空網を作り上げたのです。
(※リアルタイム処理の歴史そのものはSAGEよりもさらに古く、1943年に始まったワールウィンド計画にさかのぼる[76]。Whirlwindとは「つむじ風」のこと。航空機パイロットを養成するためのフライトシミュレーターを作る計画だった。この計画では1945年から電子コンピューターの利用が検討されるようになり、リアルタイム処理の研究が進んだ。研究成果はSAGEへと引き継がれた。)
ちなみに、SAGEの開発中に取り入れられた技術の1つに、コンピューターのインターフェイスとしてCRTディスプレイを用いることが挙げられます[77]。
SAGE誕生で最も恩恵を受けたのは、開発を請け負ったIBMでした。彼らは新たな技術を吸収し、民間に転用していったのです。その最たる例が、1964年に完全稼働したアメリカン航空の座席予約システム「SABRE(セイバー)」でした[78]。
戦後、航空機はアメリカ人の足として大いに発展しました。便数の増加と機体の大型化にともない、1950年代には座席予約はほぼパンク状態になっていたのです。そこで1960年、アメリカン航空は新しい座席予約システムの開発をIBMに依頼。4000万ドルという「5~6機のボーイング707が買える」金額で契約を結びました。
およそ3年の開発期間を経て完成したSABREは、「1日につき8万5000本の電話に応え、3万件の運賃照会をこなし、4万件の旅客予約を行い、3万件のほかの航空会社からの照会に応え、2万件の発券」を行うことができる性能でした。年間1000万人の予約を取り扱うことができました。当然、ここにはリアルタイム処理が必須でした。
同じく1964年に、日本ではMARS-101という座席予約システムが完成しました。こちらは日立と国鉄の共同開発でした[79]。航空機のアメリカに対して、鉄道の日本という、お国柄の違いを感じます。
1964年には、ソフトウェア開発でも大きな飛躍がありました。ダートマス大学で、プログラミング言語「BASIC(ベイシック)」が開発されたのです[80][81]。
BASICが生まれた背景には、タイムシェアリングの普及があります。それまでのプログラミング言語、とくに科学研究の場で使われていたFORTRANには、翻訳(コンパイル)が遅いという欠点があったのです。リアルタイムでコンピューターを操作できるようになった結果、学生たちはプログラムを試行錯誤しながら書くことが容易になりました。高速で翻訳できる言語が求められたのです。
教育目的で開発されたBASICは、初学者でも2時間程度の講習で簡単なプログラムを書けます。理工系の学生に限らず、すべての新入生が扱えるほど分かりやすい言語でした。
さらにBASICはマイクロソフト社の誕生にも関わるのですが――。
それは少し先の話になります。
IBMの栄華と新たなる潮流
ハードウェアに目を向けましょう。
1964年4月、IBMは「System/360」を発表[82][83]。これは、コンピューター産業全体を再定義するほどの大ヒット製品になりました。発表後の最初の1ヶ月間で1100台、2年間で9000台の注文が入ったのです。これは当時のIBMの供給能力を完全に上回るほどの数でした。
System/360という製品名は、科学研究から会計業務まであらゆる業務をカバーするという意図が込められています。最上位機種から最下位機種まで、互換性を持たせた点も画期的でした。それまでIBMが作ってきた製品はシリーズごとにアーキテクチャがバラバラだったため、ある製品で動いたアプリケーションが別の製品では動かない――といった事態を避けられなかったのです。
1965年~1970年の5年間で、System/360のおかげでIBMの売上は倍増しました。一方、競合他社も対応を迫られました。System/360の互換機を作るか、System/360では対応できないニッチなジャンルを狙うか――。戦略の練り直しを余儀なくされたのです。メインフレーム業界で、真正面からIBMに立ち向かえるライバルはいなくなりました。
当時の華々しい成功とは裏腹に、現在ではSystem/360は不名誉な逸話で有名かもしれません。この製品のオペレーティング・システムである「OS/360」は、ソフトウェア開発の歴史的大惨事として有名なのです[84]。OS/360は1964年から開発が始まり、当初の予定から1年遅れの1967年にどうにかリリースにこぎつけました。それでもバグが多数残っており、その解消には数年を要しました。
このプロジェクトを率いたフレデリック・P・ブルックス・ジュニアは、その顛末を『人月の神話』という著書にまとめています。大規模なソフトウェア開発の難しさを伝える、現代の古典です。プロジェクトの遅れを取り戻すために新たなスタッフを投入しても、その人への情報共有や新たなワークフローを構築することに時間を浪費するだけ――。これがブルックスの教訓でした。「子どもを産むのには9ヶ月かかるのであって、女性が何名割り当てられても早くならないのと同じ」なのです。
System/360の成功の裏側で、新たなコンピューティングの潮流も生まれていました。
1965年にDEC(Digital Equipment Corporation)社が発表した「PDP-8」は、「ミニ・コンピューター」と呼ばれるジャンルの大ヒット製品でした[85][86]。
DECが「PDP-1(Programmed Data Processor-1)」を発表したのは1959年[87]。その筐体は大型の業務用冷蔵庫ほどもありましたが、それでも当時のメインフレームに比べれば、はるかに「ミニ」サイズでした。性能が控えめなぶん、価格も割安でした。商業的には成功しなかったものの、MITに寄贈されたPDP-1の周りには学生が群がり、「ハッカー文化」を生み出しました。ミニコンの需要に気づいたDECは、その後もPDPシリーズの改良を続けました。
PDP-8の販売価格は1万8000ドル。当時の物価を考えれば決して安くありませんが、それでも個人でも手が届く範囲の価格でした。IBMのメインフレームがジェット旅客機だとすれば、PDP-8は高級スポーツカーくらいの値段だったのです。筐体も小さく、扱いやすくなりました。なかには、トラクターの上に載せてジャガイモ摘み取り機の制御に使うという事例すらあったようです。
PDP-8の功績は、その販売台数の多さから「職場や学校でコンピューターを触ったことがある人」の数を激増させたことでしょう。彼らの一部はホビイスト――ギークやオタク――になり、自由に遊べるコンピューターが自宅にあったらと夢想するようになりました。そして、これが1970年代のパーソナル・コンピューター誕生へと繫がります。
ところでGUIの歴史上、1968年12月9日は特別な日です[88][89]。
この日、サンフランシスコで開催されたコンピューター会議で、SRI(スタンフォード・リサーチ・インスティテュート)の研究者で発明家のダグラス・エンゲルバートが、「電子オフィス」というシステムのデモンストレーションを行ったのです。それはテキストと画像を統合するシステムであり、聴衆に衝撃を与えました。
エンゲルバートは「人間とコンピューターの共生」というビジョンをどうすれば実現できるのか、この日、明確な実例を示したのです。
(※「人間とコンピューターの共生」というビジョンはARPAの研究者J・C・R・リックライダーが1960年に掲げた。リックライダーはSAGEの開発にも携わった。エンゲルバートの発明は、リックライダーの研究の延長線上にある。さらにリックライダーのビジョンはインターネット誕生の伏線になる。)
現在のコンピューターのインターフェイスは、エンゲルバートのチームの発明に大きく影響を受けています。とくに有名なものは「マウス」です。彼のチームは様々な形式のポインティング・デバイスを実験しましたが、被験者が最も自然に扱えるものとしてマウスにたどり着きました。現在でこそタッチパネルやジェスチャーなどのライバルが現れつつありますが、マウスの地位はまだしばらくは揺るがないでしょう。
1968年には、コンピューターの歴史のもう1つの物語が始まりました。
ロバート・ノイスとゴードン・ムーアがインテル社を創業したのです[90]。
集積回路とパソコンの誕生
シリコンバレーの歴史は1956年に始まります[91]。
この年、ウィリアム・ショックレーが、ショックレー半導体研究所を設立したのです。彼はベル研究所のOBで、同年、トランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞しました。「研究所」という社名ではあるものの、その実態は半導体製品の製造メーカーでした。
ショックレーは、かなり気難しい人物だったようで、早くも翌年1957年には8人の従業員から愛想をつかされてしまいます。このとき離反したスタッフの中に、ロバート・ノイスの姿がありました。当時のノイスは29歳。周囲からは頭脳明晰でカリスマ性のある人物だと認められていたそうです。
ノイスは、フェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツ社から出資を取り付けて、フェアチャイルド・セミコンダクター社を設立しました。
シリコンバレーをシリコンバレーたらしめたのは、この企業です。
フェアチャイルド・セミコンダクターは、やがて集積回路(IC)やチップといった技術革新をもたらしました。さらに、ここで育成された人材が、やがて自らもベンチャー企業の創業者として成功していったのです。(のちの)インテル 、AMD、ナショナル・セミコンダクターなど、OBによって設立された企業は「フェアチャイルドの子供たち」と呼ばれます。1969年にカリフォルニア州サニーヴェイルで学会が開かれたとき、集まった400人のうち、フェアチャイルドで働いたことがない参加者は20人ほどしかいませんでした。
一方、フェアチャイルドが成長するにつれて、ロバート・ノイスは不満を募らせるようになりました。組織が官僚的で硬直的になっていったからです。1968年、彼はゴードン・ムーアを引き連れて、インテル社を設立しました。
(※ゴードン・ムーアは、「ムーアの法則」の提唱者として有名である。半導体産業の経験則から、集積回路上のトランジスタの数は2年ごとに2倍になると彼は予言した。)
1971年、インテルは日本のビジコン社の依頼で、電卓用の4ビットチップ「4004」を完成させました[92]。開発には、ビジコンの社員である嶋正利も参加していました[93]。これはインテル初のマイクロチップです。残念ながらビジコンはその後、電卓業界の競争激化やオイルショックの影響などで倒産しましたが、4004の後継である8008や8080といったチップは、やがて「パーソナル・コンピューター」をこの世界にもたらすことになります。
が、少しだけ寄り道しましょう。
1970年代には、コンピューターは研究所や大企業の電算室の中に収まるものではなくなっていました。たとえば小売店でバーコードによる商品管理が始まったことは、人々の生活を一変させました。アメリカでは1974年に最初のバーコード付き商品が出荷されました[94]。
日本でも状況は似ており、1970年代初頭から、ガソリンスタンドやドラッグストアでPOSシステムが導入されつつあったのです。1982年にセブン-イレブンがPOSシステムを導入したことで、本格的な普及の時代に入りました[95][96]。
前回の記事で書いた通り、現在のコンビニでは驚くほど新鮮なサラダを買えます。驚くほど手の込んだ製品を100円ショップで買えます。小売業とその背後にある製造業および物流の効率化のおかげです。そしてそれを可能にしたのは、この時代から本格化したコンピューター・システムの導入でした。
「まともな製品」ではない
1975年1月、「アルテア8800」という製品が発売されました[97][98]。
これこそ世界初の、正真正銘のパーソナル・コンピューターでした。
とはいえ、これは一般消費者をターゲットにした「まともな製品」ではありませんでした。正面のパネルにいくつかのスイッチとランプが並んでいるだけで、キーボードやディスプレイは付属しませんでした。いわばインテル8080プロセッサーを収めた「箱」でしかなかったのです。
アメリカには、古くは20世紀初頭の無線通信が始まった時代から、電気・電子工作を愛好するホビイストたちの文化がありました。1970年代に入り、プリント基板やチップが安く手に入るようになると、彼らはタイマーやゲーム、時計、キーボード、測定器などの簡単なデジタル装置を作って遊ぶようになったのです。アルテア8800は、そういうオタク向けの電子工作キットでした。
アルテア8800はニューメキシコ州アルバカーキ(※大ヒットしたテレビドラマ『ブレイキング・バッド』の舞台として有名。)の小さな電子工作キットメーカー、マイクロ・インスツルメンテーション・テレメトリー・システムズ(MITS)が発売しました。もともと模型飛行機のラジコンを作っていた小さな企業です。
アルテア8800は、ただの「箱」でした。プログラミングを行うには、正面のトグルスイッチでバイナリ(0と1の羅列)を入力するほかなく、プログラムが正しく動作しているかどうかは、ランプの点滅で判断するしかありませんでした。この制限の多さが、むしろホビイストたちの心に火をつけました。彼らはアルテア8800の機能拡張に挑戦し、増設メモリやテレタイプ端末、データ保存用のカセットテープ・レコーダーなどを接続できるようにしたのです。
ビル・ゲイツも、そうしたホビイストの1人でした。彼はポール・アレンと組んで、アルテア8800で動作するBASICの開発に着手したのです[99]。発売されたばかりの「箱」に2人は飛びつきました。そして6週間の不眠不休の作業を経て、1975年2月にアルテア8800用のBASICプログラミングシステムをMITSに納品しました。彼らは、共同出資した自分たちの会社を「マイクロ-ソフト」と名付けました(※のちにハイフンを省略して「マイクロソフト」に改名する。)。
同じく1975年、カリフォルニアの電子工作愛好家のコミュニティ「ホームブリュー・コンピューター・クラブ」の会合に、モステクノロジー6502チップを搭載した手作りのコンピューターを持ち込んで称賛を浴びた男がいました。スティーブ・ウォズニアックです[100]。
ウォズニアックの5歳年下の友人スティーブ・ジョブズは、そのコンピューターを見て商売になると直観しました。そこでウォズニアックを説得し、翌1976年、「アップル・コンピューター」という商品名で発売したのです。ジョブズの実家のガレージで、2人の男はマシンを1台ずつ手作りしました。この「Apple I」という通称で知られる製品は、最終的に200台ほど売れました。
1977年4月、Apple IIが発売されました[101]。
これは「パソコンとはどういうものであるか」を定義づけた製品といえるでしょう。キーボードは本体と一体化しており、CPU、メモリ、画像や音声の出力端子、さらにプログラミング言語などを単一のパッケージとして売り出したのです。ジョブズとウォズニアックは、専門知識を持たない一般消費者でも使えるコンピューターを目指していました。
1979年10月に発売された表計算ソフト『VisiCalc(ヴィジカルク)』は、Apple IIのキラーソフトでした[102][103]。かつては大企業のデータセンターでしか行えなかったような財務分析が、自宅の机の上でできるようになったのです。パソコンは、もはやホビイストのおもちゃではなくなりました。中小企業の経理担当者や、個人営業の小売店の店主にとっても役に立つ道具になったのです。
(※とはいえ、ビジカルクの伝説はやや誇張されているらしい。1980年9月までに売れたアップル社の13万台のコンピューターのうち、ビジカルクの影響で売れたのは2万5000台程度だった。)
1970年代末ごろには、パソコンは事務機器の1つだと見做されるようになりました。
であれば、IBMが黙っているはずがありません。1980年、彼らは自社製のパソコン開発を決意[104][105]。そのOSの開発をデジタル・リサーチ社のゲイリー・キルドールに依頼しました。キルドールには、インテル8080プロセッサー用のOS「CP/M」を開発した実績がありました。
ところが、どういうわけかキルドールはIBMとの契約のチャンスを逃しました。一説には、スーツ姿のIBM社員がデジタル・リサーチ社に到着したとき、たまたま彼は不在であり、会社の総務担当だった妻がNDAへのサインを拒んだからだと言われています。
真相はどうあれ、IBMは別の候補者にOS開発を持ち掛けました。
それが、ビル・ゲイツです。
1981年8月12日、初代「IBM PC」が発売されました。
(※1975年にIBMは「IBM 5100」というポータブル・コンピューターをリリースしていた。こちらをIBM初のパソコンと見做す場合もある。)
16ビットCPUのインテル8088プロセッサーを搭載し、OSにはマイクロソフト製「PC-DOS」が用意されていました。このOSをマイクロソフト経由で他社にOME供給したものが「MS-DOS」です。この仕事により、ビル・ゲイツは億万長者になりました。
(※IBMの依頼を受注したとき、マイクロソフトにはソフトウェアの現物はもちろん開発スタッフも充分に揃っていなかった。ゲイツは地元のシアトル・コンピューター・プロダクツ社から使えそうなソフトウェアを現金3万ドルで購入し、それに改良を加えて納期に間に合わせた[106]。商売する上で「革新的なものを作ること」は重要だが、「注文を受ける立場にあること」はさらに重要だ……というのが、この逸話の教訓だろうか。)
IBMの販売力と、潤沢な資金による広告戦略で、IBM PCは飛ぶように売れました[107]。続く2年間で、パソコンの業界標準になったのです。人気ソフトウェアの多くがIBM PC用に書き直され、このマシンの普及に拍車をかけました。
1982年10月に発売された『Lotus 1-2-3』は、IBM PCのキラーソフトの1つです[108]。VisiCalcと同じく表計算ソフトであり、一時期はその代名詞となりました。ほんの数年前までパソコンはオタク向けの「まともではない製品」でした。ところが、IBMのロゴマークは大企業の備品購入担当者に安心感を与えたのです。IBM PCと『Lotus 1-2-3』の組み合わせによって、パソコンはオフィスの日常風景に溶け込んでいったのです。
アメリカのニュース週刊誌『TIME』は毎年年末に、その1年間で良くも悪くも最も世界に影響を与えた人物を「パーソン・オブ・ザ・イヤー」として発表しています。しかし1982年に選ばれたのは、「マシーン・オブ・ザ・イヤー」であるパーソナル・コンピューターでした。
もしもIBMのパソコン事業部が独立企業だったとしたら、1984年の時点で業界3位になっていただろうという推計があります[109]。つまり、パソコン事業部を除くIBM全社が第1位、ミニコン大手のDECが第2位であり、それに次ぐ規模の売上をIBM PCはもたらしたのです。
すべての家庭にパソコンを
1984年1月22日、アメリカ人たちはテレビの前に座り、第18回スーパーボウルを楽しんでいました。ハーフタイム後の最初のコマーシャルに、彼らの目は釘付けになりました。
CMで描かれたのは、薄暗く荒廃した近未来の映像でした。建物の通路を、まるで囚人服のような灰色の衣服を着た男たちがぞろぞろと行進していきます。彼らの行きつく先の広間には大型ディスプレイが掲げられており、小説『一九八四年』の〝ビッグ・ブラザー〟のような権力者が、唾を飛ばしながら何かを演説しています。男たちはその大型ディスプレイを、生気のない顔で眺めます。すると突如、通路の奥からスポーツウェアを身にまとった短髪の女性が現れます。健康的に日焼けした彼女は、銃を持った警備員に追われているのです。しかし、彼女は追っ手をものともせずに、画面の中の権力者に向かってハンマーを投げつけます。次の瞬間、大型ディスプレイはバラバラに砕け、印象的なキャッチコピーが表示されます。
このCMは話題を呼び、翌週になってもニュースやトークショーで何度も取り上げられました[110]。この〝ビッグ・ブラザー〟は、IBMの暗喩でした。アップルはマッキントッシュで、コンピューター業界の巨人に挑んだのです。
マッキントッシュは、GUIを普及させたパソコンです。
先述の通り、ダグラス・エンゲルバートが「電子オフィス」の伝説的なデモンストレーションを行ったのは1968年でした。彼のプロジェクトに触発された研究所の1つが、ゼロックス社のパロアルト・リサーチセンター(通称「PARC」)です。当時のゼロックス社は日本のコピー機メーカーとの競争を恐れ、1970年代を通じて多額の研究開発費をコンピューター部門に投じていたのです[111]。1973年には、彼らは「アルト」という先進的なマシンを開発しました。アルトは最終的には1000台以上製造されましたが、ほぼ社内のみで使用されました[112]。
(※ゼロックスPARCのアルトこそ世界初のパソコンだと主張する論者もいる。しかしアルトは個人で所有するには高額で、一般販売されなかった。)
1979年12月、PARCを見学したジョブズはアルトを見せられて思わず訊きました。
「なぜゼロックス社はこれを売りに出さないのですか? ……みなをギャフンと言わせることができるのに![113]」
もちろんゼロックス社は、そうするつもりでした。1981年5月にモデル8010ワークステーション、通称「ゼロックス・スター」を発表したのです。GUIを始め、現在のパソコンで当たり前となった機能をほぼすべて備えた製品でした。しかし残念ながら、商業的には失敗。一般的なサラリーマンの給与のほぼ1年分という価格の高さが仇となりました。
一方、ジョブズはPARCの見学から帰ってくると、すぐにそれをパクることにしました。
(※ジョブズはPARCのGUIを模倣したことを認めたばかりか、それを自慢してさえいた[114]。)
そして、1983年5月に「Lisa」を発売。しかし、こちらも価格の高さゆえに商業的には惨敗でした。一方、アップル社内では以前からジェフ・ラスキンの発案でマッキントッシュの開発が進んでいました。ラスキンはジョブズとの対立・関係悪化により1982年にアップルを去りましたが、彼のプロジェクトはジョブズの旗振りの下に続きました。
印象的なCMにより初速こそ良かったマッキントッシュですが、すぐに販売不振に陥りました。パソコンを「情報家電」として一般家庭に行き渡らせるというラスキンとジョブズのビジョンは、10年以上も時代を先取りしすぎていたのです。
1985年、ジョブズは役員会での主導権争いに敗北。閑職に追いやられ、アップルを退職しました。(※その後、ジョブズはピクサー社の創立にかかわり、1997年までにアップルに復帰した。)
同じく1985年、マッキントッシュの窮地を救うことに――少なくともアップルを生き長らえさせることに――なるソフトウェアが発売されました。マイクロソフトの『Excel』です[115]。マックユーザーは『Lotus 1-2-3』に匹敵する表計算ソフトを手に入れたのです。
じつのところ、マイクロソフトは1981年にマッキントッシュ用のOSの一部を開発する契約を結んでいました。それ以来、アップルとは重要なビジネスパートナーだったのです。1987年の時点で、マイクロソフトの売上の半分はマッキントッシュ用のソフトウェアからもたらされていました[116]。この経験からマイクロソフトはGUIのソフトウェア開発のノウハウを積み、やがてそれは『Windows』に結実したのです。
(※Windows以前にも、ゼロックス・スターに触発された人々により、DOS機で動くGUIのOSは作られていた。1984年にはデジタル・リサーチ社の『GEM(Graphics Environment Manager)』、IBMの『TopView』など。いずれも商業的には失敗した。)
1985年11月に『Windows 1.0』がリリースされたとき、大半のユーザーはそれをお遊び程度のものだと考えました。99ドルという手ごろな価格ゆえに100万本も売れたのですが、その動作は「耐えられないほど遅かった」のです[117]。
1987年末、『Windows 2.0』が発表されました。そのルック・アンド・フィールは、マッキントッシュのものに近づきすぎていました。1988年3月、ついにマイクロソフトは知的財産権の侵害でアップルに訴訟を起こされます。とはいえ、アップルの訴えの大半は棄却されました[118]。
1990年5月、『Windows 3.0』発売。この頃には、もはやマイクロソフトのGUIは「お遊び」ではなくなっていました。全世界12都市で発売記念イベントが開催され、ニューヨークのそれには約6000人ものファンが詰めかけました[119]。
1993年の『Windows NT』を経て、1995年の『Windows 95』が発売される頃には、マイクロソフトは(かつてのIBMのような)業界を牛耳る巨人になっていたのです。
私は1985年生まれですが、『Windows 95』の発売日のニュースを覚えています。深夜に家電量販店の前に行列ができ、社会現象と化したのです。「専門知識のない初心者でもパソコンが使えるようになる」と謳われていた記憶があります。
日本では1980年代の半ばからNECの「PC-98」シリーズがパソコン業界を牽引していました。が、1991年のDOS/Vの出現に続き、『Windows 95』の普及によって急速にシェアを奪われました[120]。
マイクロソフトは『Windows』をプリインストールしたパソコンをメーカーに販売させるというビジネスで、その地位を揺るぎないものにしていきました。パソコンを「情報家電」として一般家庭に普及させるというラスキンとジョブズの夢を叶えたのは、ゲイツ率いるマイクロソフトだったのです。
ところで、『Windows 95』が人気になった理由の1つは、「TCP/IP」を標準搭載していたことです。これにより、インターネットに比較的簡単に接続できたのです。
1990年代半ば、世界はいよいよインターネットの時代に突入しました。
(次回、「通信の歴史」編に続く)
(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第14回です)
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※※※参考文献※※※
[45] ポール・E・セルージ『モダン・コンピューティングの歴史』(未來社、2008年)P.45
[46] Martin Campbell-Kelly、William Aspray、Nathan Ensmenger、Jeffrey R. Yost『コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか』(共立出版、2021年)P.114-116
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