カネと宗教と活版印刷

印刷が世界を変えた

「世界を変えた印刷物」のリストを作るのは難題です。人文学が専門ではない私ですら、思いつく限りに書名を上げていけば数百~数千冊のリストになってしまうでしょう。私の本業である物語創作の観点でいえば、シェイクスピアやディケンズの著作はすべて世界を変えたレベルで重要です。しかし本書の趣旨からは離れるので、ここでの紹介は避けましょう。
 また、ホッブスやロック、ルソー、モンテスキューなどの小中学校の社会科で習う思想家の著作をわざわざ紹介しても、学校の勉強のおさらいという趣が強くなりすぎてしまうでしょう。

 このブログでは私独自の視点から、絞りに絞って5冊を紹介します。
 この5冊が紡ぐのは、人類が現代的な価値観を身に着けて、「科学」を発明するまでの物語です。

①ルカ・パチョーリ『スムマ』(1494年) 

複式簿記――商売の言語

 1冊目はルカ・パチョーリの『算術、幾何、比および比例に関する全集』です。イタリア語版の書名の冒頭を取った『スムマ』という通称で知られています。これは当時の数学の知識をまとめた入門書なのですが、特筆すべきはヴェネチア式の簿記を紹介する章があることです。これは世界初の複式簿記の教科書でした。
 著者のルカ・パチョーリはコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士であり、遍歴の数学者として名の知られた人物でした[1]。各地で家庭教師として算術や幾何学を教えていたようです。レオナルド・ダ・ヴィンチも遠近法の計算方法を相談するために、パチョーリと接触した形跡があります。

 複式簿記を知らない読者にその重要性を解説するのは、たとえばタッチタイピングを知らない人にその便利さを説明したり、自炊をしない人に料理の面白さを伝えたりするくらい難しいのですが――。どうにか挑戦してみましょう。
 複式簿記とは「帳簿のつけ方の一つ」であり、その点では現預金の出入りだけを記録する「おこづかい帳」や「家計簿」と同じです(これらは単式簿記と呼びます)。しかし商業活動では、一般家庭よりもはるかに複雑なカネの出入りがあります。
 たとえば銀行口座に入金があった場合、それは製品の「売上」が入金されたのか、それとも銀行から借りたカネ――「借入金」が入金されたのか、きちんと区別して記帳する必要があります。出金があった場合も同様で、水道光熱費などの「費用」を支払ったのか、商品を仕入れたのか、借金を返済したのか、区別が必要です。仕入れた商品のうち在庫になっているものは、いずれ販売した際には売上をもたらします。したがって「棚卸資産」として記録しておかなければなりません。
 一般家庭なら、単式簿記の家計簿でもこれらのカネの出入りを記録できるでしょう(かなり根性が必要でしょうが)。しかし、取引相手が数百社、数千社と増えた場合を想像してください。さらに業務委託先や支店、支社、子会社の取引まで管理する必要が生じたら? 並みの人間では対処できないほど、複雑な経理作業が必要になると想像していただけるはずです。

 ところが複式簿記を使えば、こうした複雑なカネの管理が可能になります。それも、紙とペンだけで。

 インターネットを眺めていると、冗談めかして「社畜」とか「資本主義の奴隷」といった自虐を述べる人をしばしば見かけます。そういう立場から脱するために、真っ先に身に着けるべきスキルが複式簿記だと私は考えています。(悪い言い方をすれば)商売の道具として使われる立場から、自分自身が商売を動かす側の立場になる際に、必ず学ぶべきスキル――。それが複式簿記です。

ヨーロッパの世界制覇を支えた「カネの力」

 話を歴史に戻しましょう。
 複式簿記は14世紀ごろに、ジェノヴァやナポリ、ヴェネチア、フィレンツェなどの北イタリアの商業都市で完成しました[2]。この地の商人たちは先述のような複雑なカネの管理という問題に直面し、簿記の技術を洗練させることで対処したのです。細部の発展と進歩はその後も続きましたが、複式簿記の根幹部分――貸借の一致、ストックとフローの分類など――は、この時代から変わっていません。
 じつは江戸時代の日本でも、複式簿記に似た記帳の仕組みが(おそらくは独自に)発明されていました[3]。1671年に作成された大阪の鴻池両替店の「算用帳」などが知られています。天下太平の世となって商業が発達した結果、3世紀前のイタリア人たちと同様の問題に頭を悩ませ、似たような解決策に至ったようです。ところが、これら日本の商業帳簿はいわば「一家の秘伝の技術」となり、符丁(ふちょう)を使うなどの暗号化がほどこされることさえありました。開国以前の日本では『スムマ』のような簿記の教科書が広く出回ることはなかったのです。
『スムマ』の出版された1494年は、コロンブスが新大陸に到達した2年後であり、「大航海時代」が産声を上げようとしている時代でした。それからおよそ1世紀後の1600年、イギリスではエリザベス1世の勅命によりイギリス東インド会社(EIC)が設立されます。これに危機感を覚えたオランダ人は、1602年にオランダ東インド会社(VOC)を設立しました。
 オランダ東インド会社(VOC)は世界初の株式会社です[4]。
 それまでの貿易会社は、航海の開始時に出資を募り、船が帰港したら解散・清算する「当座企業」でした。ところがVOCはそのような仕組みではなく、「継続企業の前提(ゴーイング・コンサーン)」を満たしていました。また、もしもVOCが破産した際には、株主はその負債を背負わなくていいという「有限責任制」でした。さらに「株式の譲渡・売買」が可能でした。現代にも通ずる株式会社の条件を満たしていたのです。
 こうした先進的な会社を作ることができた背景には、簿記・会計知識の普及があります。『スムマ』以降も複式簿記の教科書が次々に作られて、ヨーロッパの中産階級以上の人々にとっては基礎教養の1つになっていたのです。
 その後の3世紀ほどかけて、ヨーロッパ人は世界を制覇しました。
 それを可能にしたのは帆走軍艦と大砲、銃の力であり、それらを用立てるカネの力だったのです。

②マルティン・ルター『九十五ヶ条の論題』(1517年)

キリスト教の分派の歴史

 まずはごく簡単に、キリスト教の概史をおさらいしましょう。
 西暦はイエス・キリストの生誕(または割礼した日)を元年とする暦ですが、現在では研究が進み、彼の生誕年は紀元前7~4年頃だとされています。ナザレのイエスは30歳ごろから宣教活動を始め[5]、ゴルゴタの丘で磔刑に処されました。弟子たちはその後も布教を続けましたが、危険な新興宗教として長らく迫害されました。
 ところが313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認し、325年にはニケーア公会議を開催しました。この会議では、キリストと神とを同一視するアタナシウス派が正統教義と見做されました。アタナシウス派は、のちに三位一体説を確立します。さらに431年のエフェソス公会議では、キリストの神性と人性とを分離するネストリウス派が異端を宣告されます。彼らは中東を経由して唐代の中国にまで逃げ延び、「景教」と呼ばれました。ローマでの出来事は、東アジアの歴史にも、まったくの無関係というわけではなかったのです。

 ローマ帝国の東西分裂と滅亡は以前の記事で書いた通りです。ところが、ヨーロッパの主要地域を再び統一する強大な王が現れました。フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)です。ローマ教皇レオ3世は、これを偉大なる西ローマ帝国の復活だと見做し、800年、カールにローマ皇帝の帝冠を与えました。
 ポイントは、カールの戴冠時にもコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は健在だったということです。要するにレオ3世は、勝手にカールをローマ皇帝だと宣言してしまったのです。ここに来てローマの教会は、ビザンツ帝国からの従属から脱しました。のちの11世紀までに、キリスト教は東方のギリシャ正教と西方のローマ・カトリックに大きく分裂していきます。

 この時代の興味深い文書として『コンスタンティヌス帝の寄進状』を紹介しておきましょう。これはコンスタンティヌス帝がコンスタンティノープルに隠居する際に書いたとされる文書で、西方世界の支配権をローマ教会にすべて委ねるという内容が記されていました。長らく、ローマ教会の絶対的権威の根拠として用いられていました。
 ところが1440年、イタリアの人文学者ロレンツォ・ヴァッラはこれが偽書であることを看破しました[6]。どうやらビザンツ帝国からの影響力を弱めるために偽造されたものだったようなのです。(※現在では、この『寄進状』は750年ごろに書かれた偽書だと確定している[7]。)
 グーテンベルクが活版印刷機を発明したのは、教会の権威が根底から揺るがされつつある時代だったといえるでしょう。

ルター――印刷技術が生んだインフルエンサー

 マルティン・ルターは1483年生まれ。エアフルト大学に入学した彼は、1505年、通学中の草原で激しい雷雨に見舞われて、稲妻の恐ろしさのあまり聖アンナへ助けを求めて叫び、修道士として生きることを決意したと伝えられています。
 1517年、30代半ばになったルターは、ローマ教会への疑問をまとめて『九十五ヶ条の論題』としてヴェッテンブルク城の教会の門に張り出しました。彼はとくに贖宥状――罪の許しをお金で買えるという発想――  に疑いを抱いていました。この文書は一般庶民には読めないラテン語で書かれており、あくまでも教会関係者に対して議論を呼びかけていたようです。ルターはマインツの大司教を始め、司祭仲間にも討議すべき内容を送りつけました。当初、相手はルターを完全に黙殺しました。
 ところが、ヨーロッパ各地の印刷所が、ルターには無断でこの文書を複製・翻訳し始めたのです。
 1520年の時点で、ラテン語版3種類とドイツ語版1種類が存在しました。1523年にはオランダ語版、1525年にはフランス語版、1527年にはスペイン語版が登場しました[8]。
 ルターの議論は、純粋な神学論争というだけでなく、世俗の人々の生活に干渉するローマ教会のやり方に疑問を呈するものでした。一部の神学者だけでなく、(少なくとも文字の読める)中産階級以上のエリート層から広く興味を集める内容だったのです。イタリアの教皇がドイツの政治に口を出すという状況を面白く思わない愛国主義的な人々がいたことも、ルターが人気を集めた背景にはあったようです。

 こうしてルターは、現在でいえば「バズって」しまったのです。

 プロテスタントの歴史家により、ルターは論争好きのたくましい人物として描かれがちです。それは一面の真実を捉えているのでしょう。彼はたしかに、妥協を知らない頑固かつ頭脳明晰な人物だったようです。反面、1519年にライプツィヒで開かれた討論会に現れた彼は、骨と皮ばかりで、急に有名になった重圧で疲れ果てていたといいます[9]。まるで、現代の「炎上しちゃった人」のようです。
 バラク・オバマ大統領が選出された2008年のアメリカ大統領選挙以来、SNSは政治議論の主戦場となりました。似たような現象が、16世紀には「印刷物」というイノベーションを介して起きました。ルターが火をつけた宗教改革の議論に参加した人々は、誰もがこぞって論文を書き、小冊子を印刷することで、(現代のSNSユーザーと同様に)相手を論破しようとしたのです。
 ドイツで印刷された小冊子の数は、1517~1518年にはそれまでの5倍になり、1520~1526年の期間に6000点以上の論文が執筆され、650万部以上が印刷されたという研究があります。これら冊子の価格は、1冊あたり雌鶏1羽や干し草用フォーク1本と同程度であり、多少は値が張るものの誰でも入手可能な範囲でした[10]。なお、当時のドイツの人口はおよそ1200万人、識字率は国全体で5%、都市部の男性でも30~40%と推計されています。驚くべき数の印刷物が刷られたことが分かります。

 ルターは速筆な人物で、多数の著作や手紙を残しました。とくに有名なものは、讃美歌集やドイツ語版の『新約聖書』でしょう。ルターは、ただローマ教会の権威にたてついただけではありません。福音を信ずることのみによって魂は救われるという自らの思想に基づき、平信徒のために筆を振るったのです。

プロテスタントの誕生が世界地図を変えた

 こうしてキリスト教には新たな宗派「プロテスタント」が生まれました。中世のヨーロッパの社会秩序は崩壊し、分裂と宗教戦争の時代へと突入していきます。
 プロテスタントの登場がもたらした歴史的事件として、ここでは三十年戦争を紹介しておきましょう。
 三十年戦争は1618~1648年に争われた、ヨーロッパ全土を巻き込んだ紛争です。交戦勢力はあまりにも多く紹介しきれません。が、神聖ローマ帝国を筆頭とするカトリック勢力と、ボヘミア王国やネーデルランド(オランダ)、イングランドなどのプロテスタント勢力が争った宗教戦争でした。

※カトリックを信仰するフランス王国は、この時はプロテスタント側として参戦した。またオランダでは1568年に始まった独立戦争とあわせて「八十年戦争」と呼ばれる。

 この戦争の講和条約であるウェストファリア条約は、歴史上、極めて重要な意味を持ちます。この条約の中で、史上初めて「主権国家」の概念が明文化されたのです。現在の私たちは「国家」の定義を、誰かに「主権」があり、「領土」と「国民」が存在するものだと考えています。このような概念は、ウェストファリア条約が結ばれたことで実現したのです。

 もしもルターが『九十五ヶ条の論題』を書かず、プロテスタントが生まれていなかったら――。
 現代の世界地図は、まったく違うものになっていたはずです。


(次回、「科学革命」編に続く)
(本記事はシリーズ『AIは敵か?』の第7回です。)

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※※※参考文献※※※
[1] ジェーン・グリーソン・ホワイト『バランスシートで読みとく世界経済史  』(日経BP社、2014年)P.65
[2] 渡邊泉『会計の歴史探訪 過去から未来へのメッセージ』(同文館出版、2014年)P.33-51
[3] 中野常男、清水泰洋『近代会計史入門』(同文館出版、2014年)P.134-136
[4] ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』(文藝春秋、2015年)P.144
[5] ルカによる福音書第3章23節
[6] アレクサンダー・モンロー『紙と人との歴史 世界を動かしたメディアの物語』(原書房、2017年)P.368
[7] ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求 古代の推論術から確率論の誕生まで』(みすず書房、2018年)P. 302
[8] モンロー(2017年)P.332
[9] モンロー(2017年)P.333
[10] モンロー(2017年)P.335-336

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