ありがとう、最低な記憶
※とんでもなく暗いこと(創作)を書きますので、ブルーな気持ちになりたくない人はスルー今すぐにブラウザバックしてください。
この前、久しぶりに生きていると感じました。それを書きます。私はある時をきっかけに自分の人生を「おまけ」だと考えるようになっている人間なんですよねー。突然、意味不明ですよね。俗に言う離人症っていうの近いしいものです。原因はいろいろ心当たりがあるんですが、それからほぼ毎日浮遊感を感じながら生きてます。
そんなゴミ糞みたいな人生で、最近は特に生きている感覚がなかったです。理由はなぜか? 簡単です、「幸せ」だから。幸せは素晴らしい、楽しいし、嬉しいし、生きている意味を感じる。私は「幸せ」が好きだ。でも、それが生きていることを実感するかは別の場所にいる。
自分が心臓を動かして、肺を膨らませている。これを実感する、生きているということを感じる。それは人が当たり前にしていることで普段なら感じることが出来ない感覚だすが、ほとんどの人間がそれを知覚するタイミングはほとんどの人間に来ることですが、それを自覚して生きる期間は異常に短い。
なぜなら、それは自分の死を確信したときだから、病気に侵されて・突然の交通事故で・自殺を決めた時に、それは人によっては違うし、場合によっては知覚する時間もないかもしれない。でも、死を覚悟した人間にしか「生きている」ということを感じることは出来ない。そして、感じてその後死ぬ。
私も例外に盛れない。私は確かに一度死んだのだ。それはここに文章を寄稿している以上は肉体的な死ではないのは言わずもがなですが。ただ死んでから、待っていたのは離人症でした。生を感じない。すべてが現実味がない。でも、人間って現実味を感じなくても生きていけるんですよ。だから、私の今の人生は現実味を取っ払った、そして生きているという確信のない、オマケの人生。
そんな中で私は生きていると感じることがある。それは何か、最低だ、私が「生きている」と感じる時は不幸だと思った時だ。その時に胸が苦しくなって、自分が生きていたことを自覚する。
テストで苦しくて生を感じる。大切な人に見捨てられて生を感じる。誰かの死。私が人間であることを証明することはいつだって不幸だ。なんて、糞ったれな人生だ。
幸せな記憶なんて、素晴らしいが浮遊感が増して、生の自覚から最も遠い場所にある。生きていると感じるのは私が心労したときだ。
だから、この前みたいに自分の「生」を感じた時は「最低な記憶」を思い出して感謝する。
ありがとうって
写真:メンデレーエフがすきです