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【同人誌解説】悲劇掲げし喜劇
はじめに
こんにちは、こんばんは。好きな映画は「映画大好きポンポさん」な蓮野ねんねです。
秋例の前に投稿せねばと思っていたら前日になりました。スケジュールを途方もなく間違っていましたね。
というわけで、二回目の同人誌解説は、私の二作目『悲劇掲げし喜劇』となります。
作品概要
『悲劇掲げし喜劇』は2022年10月23日の第九回博麗神社秋季例大祭で頒布しました。全24P、本文18Pです。
テーマは1作目と引き続き「大人と子供」です。1作目よりも主張を拡張して、本来伝えたいことを込めたつもりです。MOTHERに対するMOTHER2みたいな感じですね(?)
アリストテレス『詩学』とタイトル
タイトルの意味は後述しますが、ここで「悲劇」と「喜劇」という単語が出てくるのはアリストテレスの『詩学』からの引用です。
アリストテレスは悲劇も喜劇も、人間の行為(プラクシス)を再現(ミメーシス)したものと定義します。しかし両者のちがいはその行為する人間の特性にあるのです。すなわち、悲劇は自分たちよりも優れた人間の行為を、喜劇は劣った人間の行為を再現の対象とします。
(参照:2023年11月7日)
いい感じにまとめてくれたサイトがあったので、説明はそこからの引用です。
アリストテレスは喜劇よりも悲劇の方を優れていると論じました。これを踏まえると作中で語られる物語の意味が分かると思います。
表紙デザインと『レオン』
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モノクロで菫子ちゃんと霖之助が歩いている様子です。パンダのぬいぐるみを持っていたりライカを背負っていたり、なぜか銃を持っていますね。
ところで、この構図に見覚えありませんか?
『レオン』の映画のポスターです。
『レオン』は1994年制作のフランスの映画で、ジャン・レノ演じる殺し屋レオンと、ナタリー・ポートマン演じる少女マチルダのハートフルシリアスアクション映画です。ボブカットのマチルダがマジで可愛らしいし、レオンも段々可愛く思える、おじロリ最高峰の映画です。
不幸な少女と不器用な殺し屋の奇妙な共同生活による成長譚、そして衝撃のラストが特徴的な作品ですが、作品のテーマ的には「大人と子供」が大きいと思います。
というわけで、『悲劇掲げし喜劇』は『レオン』にだいぶ影響を受けています。ぜひご鑑賞にあれ。
裏表紙の英文とバスマチ運動
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裏表紙は我がサークル名の「空色プンダリカ」と謎の英文が添えられています。
”What is your problem with me being Shahid?"
Thus spoke Basmachi.
意訳すると、「『私がシャヒードになることの何が問題なんだい?』バスマチはそう語った」になります。
バスマチとは、襲撃者や急襲者を意味するテュルク系の言葉である。帝政ロシアの行政官たちは、ロシア軍の前哨を襲撃した政治色の多彩なムスリムの匪賊集団をバスマチと呼んだものだが、革命後にソヴィエト政権に反攻したムスリムの抵抗もバスマチ運動と名付けられた。かれらは、ブハラや東ブハラ(タジキスタン)やフェルガナを根拠地に活動していた。当人たちは、しばしば「コルバシュ」(隊長)とか、「イギット」(若者・勇者)とか、「ムジャーヒド」(戦士)と称したものである。異教徒との戦いにおいて死ねば「シャヒード」(殉教者)となったのである。
バスマチとは襲撃者、シャヒードは殉教者という意味になります。バスマチたちはソ連発足初期に「バスマチ蜂起(運動)」という民族闘争を起こしています。
なぜこの英文を添えたかは、本文を読んでいただくとおそらく分かると思います。
本文解説
まず、今作の背景から説明すると、春例頒布の前作『借り上げた我褒めは鋭利』が1ヵ月程度で描かれたハイスピード制作に対し、今作は割と余裕ある日程で制作した気がします。
しかし、前作よりも多い24Pの同人誌。しかも全てストーリー漫画……。前途多難でしたね。
1P目
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始まりは回想です。不意に超能力で同級生にケガをさせてしまい、お宅訪問で親御さんに謝るシーンです。
制服から見て東深見のものではないので、おそらく中学生時代の回想と思われます。
JKの時点でも調子に乗っていた菫子ちゃん、JC時代も絶対調子に乗りまくっていたと思います。ある意味純真無垢なので、何も知らない愚か者状態でも彼女自身は幸せでした。
地味に表札が「小泉」だったりします。
2P目
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実はさっきのは夢でした。メガネ無し菫子ちゃんから幕は開けます。
仮眠から起きた菫子ちゃんはアラームが鳴るスマホを見ると誕生日メッセージが届いていることに気づきます。一つ目はシステム上のメッセージ、二つ目は母親からです。
母親からのメッセージは、実際の母親からのLINEっぽく、長文で句読点を使う感じにしました。地味にルーン文字で「LINE」と書いてあります。
「こどもの私は今日で死んだんだ」というセリフから、菫子ちゃんは成人したことが分かります。
3P目
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そして大ゴマ。部屋は3Dモデル使用です。
ここのページで菫子ちゃんは18歳になったことが分かります。つまり、前作同様成人年齢が18歳に引き下げられた世界観となっております。
しかし、前作と違うのが、菫子ちゃんの現年齢。前作は原作と同じで16歳。今作は18歳です。その違いは菫子ちゃんのこれからの行動を大きく変えます。ちなみに世界観はパラレルなので、特に話は繋がっていません。
まぁしかし、クソデカベッドで羨ましいですね。
4P目
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丑三つ時に怖い本を読んでいる霖之助さんのシーンです。
香霖堂の外観は前作からの流用です。
菫子ちゃんが登場してることから、前のページから大体2時間半以上が経過しています。そんな後ろから怖がらせないで……。
5P目
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ほんわかパートです。本当か?
3段ぶち抜き立ち絵は前回の解説で言った通り、『絶望先生』などでお馴染み久米田康治先生スタイルリスペクトです。
霖之助はコンビニ本を読んでいます。こ〇亀とかゴ〇ゴとかの傑作選がよくあるやつですね。
4コマ目はぶち抜き立ち絵を挟んでの吹き出しがお気に入りです。
6P目
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さて、菫子ちゃんにメランコリックな雰囲気が醸し出します。
自論として、これから打ち明け話をしようとする人は、初めからそういう雰囲気で話しかけるのではなく、ちょけた雰囲気で話し出すと思います。
身内同士で険悪になりたくないですからね。保身です。
3コマ目で霖之助が少し照れていますが、前ページの最後のコマで結構な勢いで菫子ちゃんに対して言いがかりを付けたら、思いの外に質問を返されなくて「は⁉」と大声を出してしまったことが原因です。
憂いを出すために6コマ目で「間」を持たせました。あと、テンポ感が良すぎたので、一回落とすためでもあります。
7P目
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場面転換し、両者とも椅子に座る状態となります。
1コマ目は構図があんまり良くないですね。二人を納めるために遠近感を潰してしまったのが原因です。今思いましたけど、このときは菫子ちゃんの頭が長いですね。
制服が死装束なのは、時間帯も影響しています。丑三つ時にわざわざ制服を着てくる時点で普通おかしいです。霖之助はそんな事情は知らないので、気づかなかったわけですがね。
8P目
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というわけで、霖之助は菫子ちゃんの真意に気づきます。つまるところ、最期へ向かうための道中だというわけでした。
関係ないですが、1コマ目の霖之助の作画の線が太すぎですね。ある意味デジタルの弊害というか、線の太さを気軽に変えることができるので、逆に違和感が生まれています。次回作からは線を均一にしようと努力(目標)しています。
さて、菫子ちゃんは本題を語り出します。
9P目
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ここからが本題です。
菫子ちゃんが語っている「おとな」という概念の説明、深秘録おまけテキストや香霖堂第二部などを参考にしています。流されるままに周りに合わせて生きる人々のことを、菫子ちゃんは嫌っている節があるので、彼女がそういった「おとな」に憤慨するのは必然かもしれません。
その集団が「普通」と見なされることに私は恐怖を覚えます。結局、個性が無くなり、何のために生きるのか分からない。もっと内面に向き合うのが一番寛容だと思います。
地味に回想シーンのトーンがモアレっています。ゆるして。
10P目
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未経験って煽られる運命なんですよね。
「お前バイトしたことないん笑」だとか「免許持ってないん笑」という言葉だったり、ネットでも「引きニート乙」という言葉があったりするなど、未経験は煽られます。
世界の壮大な煽り運転は、一人の愚か者の人生を狂わせるのに充分です。多様性と叫ばれて久しいですが、物事の順番の多様性は未だ達成していないですね。
変化することを良しとするのも諸行無常の影響なのでしょうか。結局、タヒんでしまうことを無駄に良く捉えている気がします。私は好きですけどね、虚しくて。
内面は変わらないでほしい、菫子ちゃんは一生クラスの同級生を軽蔑してほしい、そんな思いを込めたつもりです。
ちなみに3コマ目の伏字は要するにえっちなことです。
11P目
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「おとな」と「こども」を資本主義と共産主義に例えています。
資本主義は究極的に言えば個人主義に辿り着き、能力の優劣で判断します。努力することを求められますが、我々のような平民には最終的な目標みたいなものがあり、それを目指したいと思います。皮肉にも平等です。
共産主義は初めから存在しません。机上の空論です。その前段階の社会主義では国家の資産を平等にし、平等に分け与えました。しかし、どんなに努力しても給料は同じです。モチベーションなぞ消えますね。これも多分平等です。
ちなみに言っておきますが、私の思想や宗教は特に無いです。もっと安全に建設的な議論をしたいだけな人間です。
サークル名は思いっきり仏教由来ですが、専攻が仏教なだけで、どこの宗派に属していませんしね。強いて言うなら檀那寺が曹洞宗なぐらいです。
幻想郷は「変化」を拒む世界だと思います。明治前期の山中を閉じ込めている時点でそうですし、未だに神様や妖怪が跋扈していますからね。如何に守矢神社の存在が恐ろしいか分かります。
言わば、ピーターパンのネバーランドみたいなものです。
12P目
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そんな菫子ちゃんは自らが変化して「おとな」になってしまったことを悟ります。
そのきっかけとなった事件を深秘録の都市伝説異変としました。博麗霊夢という特別な「天才」によって企みが失敗に終わる。さらには月の陣営の思惑もあったわけですからね。ただの操り人形ですね。かわいそう。
「無自覚な変化と不変の自覚」、これがこの作品を表す言葉だと思います。第二次性徴などで無意識に変化してしまうが、未だ変化していないことはずっと自覚していてコンプレックスになる。もしかしたら人類を悩ます病気なのかもしれません。
というわけで、菫子ちゃんの主張は終わったようです。楽しい悲劇も終わったようですしね。
あれ?菫子ちゃんが霖之助さんに何か渡したようです。何でしょうね。
13P目
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……。
14P目
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それはさておき、菫子ちゃんはタヒのうとします。要するに、これ以上「おとな」になる自分を見たくないらしいです。私には理解できません。
なぜ一番の変化を望んでしまうのでしょうね。週刊少年ジャンプで連載されている『アンデッドアンラック』という作品では否定者という能力者が出てきますが、その中に「不変」の能力者がいます。「不変」は主人公の一人である「不タヒ」を50年前に好きになりますが、それは叶わず。それ以来50年も姿を変えず、この世に留まり続けようとしました。しかし、「不タヒ」は「タヒ」という一番の変化を望んでいました。変化を賭けた戦いは『アンデラ』の1巻と2巻に収録されているので読んでください(ダイマ)。アニメもやってるよ!
さて、霖之助は3Dプリンターガンを菫子ちゃんの頭に突き付けました。なぜ菫子ちゃんは驚いているのでしょう。
それは全てハッタリだったからです。本当にタヒのうとしていなかったのです。彼女は共感を求めていました。最悪、話だけ聞いてもらえれば良かった。銃を渡しても「こんなものは必要ないだろ!」と一蹴されると思っていた。そんな中で突き付けられたわけですからね。
そんな企みを理解していた霖之助は菫子ちゃんのことを「大愚か者」と評しました。しかし、なぜ霖之助は喜劇だとバッサリ言ったのか。
思い出してください。アリストテレスの『詩学』での喜劇の定義を。
「喜劇は劣った人間の行為を再現する」
「タヒ」という大愚かな行為は悲劇ではなく喜劇であると言ったのです。シニカルすぎて怖いですね。
15P目
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地味にタイトル回収です。
菫子ちゃんは悲劇を語っているつもりでしたが、霖之助の指摘で実は喜劇であることが判明した。つまり、このお話自体が壮大なおとぼけだったのです。だから「悲劇掲げし喜劇」なのです。悲しいです。
その真意を理解した菫子ちゃんは尚更タヒのうとします。恥ずかしさもあったのでしょう。
16、17P目
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見開きです。大したことはやってません。
何と3Dプリンターガンを投げます。多分壊れました。
霖之助は止める義務よりも権利を優先しました。
古道具屋の主人という立場よりも菫子ちゃんの雇い主という立場を優先しました。
もし、菫子ちゃんを撃ちコロしてしまったら労働組合に訴えるしかないですね。
18P目
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さあ!長かった喜劇も終わりです!
菫子ちゃんは銃弾を持っていないと主張しています。確かにそうだと思います。しかし、深秘録を初めとする格ゲーではスペルカードで3Dプリンターガンを使っています。一体何を撃っているのか。個人的な主張だと、『幽☆遊☆白書』の主人公幽助が使う「霊丸」っぽいイメージで自らの超能力で3Dプリンターガンから攻撃力が高いBB弾を発射していたのだと考えています。
そうすると、この作品の菫子ちゃんはこんなことを言いながら、実はいつでも自分をコロせる状況だったと判明します。何ということだ。
「タヒが人生に意味を与えることはない」はハードSF作家のグレッグ・イーガンの短編集『しあわせの理由』の一編の中の一節です。普通、タヒは多くの人々に影響を与えると思いますが、実は無意味でナンセンスだという皮肉ですね。
「いつまでも輝ける」という言葉は英語にすると「Stay Gold」です。
はい。スティービー・ワンダーの方ではなく、競走馬の方から取っています。ステイゴールドは競走馬の中でも最上位に好きな馬です。シルバーコレクターさながら2着ばっかりで重賞レースを取れませんでした。主戦だった熊沢重文騎手から武豊騎手に乗り替わった目黒記念でようやく重賞勝利すると、翌年にはドバイシーマクラシックを制覇。しかし、当時のドバイシーマクラシックはG2扱いでした。
というわけで、ステイゴールドはG1を取れずにいました。この時点で競馬ファンの心を掴み、判官贔屓の気持ちが大きくなっていきました。そして、ラストランは香港ヴァーズ(G1)。この時点で7歳、50戦目。おじさんも大概でした。レース展開は世紀の天才ジョッキー、ランフランコ・デットーリが乗るEkraarが変態的ラップで逃げました。最後の直線になると、Ekraarはおよそ5、6馬身も離し、2番手以下はほぼ勝てない状況となりました。そして、ステイゴールドは……、本気を出しました。気性の荒さから内ラチにぶつかると、武豊騎手は天才的な手腕で手前を変えることに成功。ステイゴールドのスピードはさらに上がり、ゴール前でEkraarを交わしました。
「黄金旅程」という香港名の通り、長い長い旅路は最後の最後に特大の黄金を携えて大団円を迎えました。武豊騎手、そしてそこまで育てた熊沢重文騎手の賜物です。熊ちゃんいいやつでさ。
まぁはい。そういうことで、霖之助は「生きてこそ」と言います。現世利益が一番ですからね。
しかし、菫子ちゃんの胸中は違います。6コマ目は文字がいっぱいありますが、横書きは今作の元ネタとなった作品や単語、そして縦書きは菫子ちゃんの「想い」です。つまり、菫子ちゃんは何も変わっていないのです。
「ピュアな恐怖心こそオカルトだ」、この言葉に菫子ちゃんの本当の想いが詰まっています。都市伝説がなぜ生まれるのか。それは人々の原初の恐怖心の顕れだからです。妖怪という存在が、明かりも無い時代の産物だったように、オカルトは人間の創造力の産物になっています。女子トイレの3つ目のドアを3回ノックすると花子さんが出てくる……、これは子供の馬鹿げた妄想だと捉えられるでしょうか?今でもこの怪談が残っているのがその証左です。部屋のドアを開けたままでいたくないのも、原初の恐怖心があるからです。
人間という存在がいるからオカルトが発生すると思います。『香霖堂』作中だと菫子ちゃんはこう語っていました。
そこでオカルトを信じず、一切オカルトを影響を受けない一番の方法は、オカルトを知り尽くすことだ。だから研究しているのよと語った。
第二話「オカルトを知り尽くす者」より
霖之助の地の文ですが、菫子ちゃんのセリフの引用です。「タヒ」は最大のオカルトで、人間の根源的な恐怖です。
「おとな」という存在は菫子ちゃんにとってのオカルトでした。「おとな」を理解し患った彼女は、次に「タヒ」という最大のオカルトを理解しようとした。一番の変化すらも受け入れるのも承知で……。
彼女にとって「タヒ」は通過点だったのかもしれません。幻想郷という存在に行けている時点で、幽霊が居ることが確定した。菫子ちゃんの好奇心は治まらないです。
生きていてもタヒんでいても輝けるのが宇佐見菫子という人物なのです。
おわりに
以上が解説でした。
クソ長で申し訳ないです。
ほぼ自分の思っていたことを詰め込んだのがこの作品だと思います。多分、私は宇佐見菫子という存在と親和性が高いです。だから、菫子ちゃんの色々な話が考えられます。卑屈なんですよね、いやらしく。
ありがとうございました。てんきゅー。
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