言葉を吐き出したいだけ
立ち直れなかった。外に出ることが許されない環境で、家の中でひとり、気分が重く、身体がだるくなっていくのを感じながら、なんとか気持ちを切り替えたいと切望しながら、寝転がって天井に手を伸ばすことしかしていない。
去年の春、大学の授業についていけなくなり始めてから、秋にメンタルクリニックにお世話になるまで、ひたすら病んで病んで病んで、薬を飲んでやっと希死念慮も薄れて、某ウイルスの影響もあったけどやっと授業が始まろうという4月末。気がつけば、私はまた鬱に片足を突っ込んでいる。
それで、ふと去年の自分のツイートを見直してみたら、一番酷かった時期のつぶやきを見つけた。ツイッターは日記がわりに使うのに本当に便利だと思う。時間をそのまま凍らせてしまったみたいに、その瞬間の、その様子が閉じ込められている。
「心の底から何らかの感情が湧いてくるのが嬉しい。それが苦しみだとしても」「マックのポテトが食べたいみたいなノリで線路で轢かれたいの」。一体どういう状態になったらこんな言葉を吐き出すことができるんだろう。もう思い出せない。相当限界だったんだろうなということが伺える。こういう、心の底から出た言葉みたいなのが好きだ。二度と戻りたくはないけれど。
この鍵垢のいいところは、みんな私のことを放っておいてくれていて、励ましたり慰めたりしないところだ。たまにいいねを押してくれたり「ご飯いこう」と誘ってくれる見守りスタンスの優しさが心地よく沁みる。見兼ねた友人がメンタルクリニックに連れ出してくれたことにもとても感謝している。皆宝物のような友人たちだ。
5月から大学が始まれば、復習に追われる日々で、それこそ授業についていけなくなって病みっぱなしだろうけど、それは別に今考えることじゃない。大学があと十日ほどで始まろうという今、だんだんと精神が腐った桃のようにぐずぐずになってきているのがヤバいのだ。予習しようと本を開いてシャーペンを手にとっても、無気力感に襲われて集中できないし、気分転換をしたところでやらなきゃいけないことからは逃げられない。《自分は敗者である》という認識が染み付いて離れない限り、私は正常な思考回路には戻れないだろう。挑戦を恐れ続けて一生逃げ回るのだ。そんなのは惨めすぎる。
どうすればいいのか分からない。何をしたらいいのかも、自分が何をしたいのかも、何が楽しいのかも分からない。とりあえず、これ書いてる時だけは、気が紛れたってことで。