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好き? 嫌い?
祖母の家の腐った冷蔵庫の中身を掃除しながらふと思う。異臭が喚起した、反吐の出るような思考だ。
私のことが好きな人が好き、という気持ちが私には昔からある。人を好きになる動機はそれだけじゃないが、それは前提のような場所に鎮座する重要なファクターだ。恋愛の意味においてでなくとも、私に多少の肯定的な感情を持っている人と話すのは私にとっては当たり前に楽しい。そうでない場合は多少なりとも苦痛だ。私は多分、人一倍人の悪意に敏感なのだろう。悪意を込めて発された言葉にはすぐに気づいてしまう。気づいてしまう上に、それを指摘するとどうなるのかも大体想像がついてしまう。私は私に対して悪意を持つ人に、欺瞞で塗り固められた善意で対応しなければならない瞬間に激しい苦痛を感じる。だから、少なくとも私は私のことが嫌いな人間は嫌いだ。もっと言えば私のことを嫌いな人間と私が同時に存在する空間そのものも嫌いだし、その空間で呼吸している私自身も嫌いだ。
好き、という感情も難しい。私はその言葉に暗に込められた責任という二文字を感じずにはいられない。何かを好きになる前に「私にそれを好きになる“権利”はあるのか」という思考が一瞬頭をよぎる。それで疲れてしまうか、うまく自分を言いくるめて嫌いになる。嫌いになるまでもないときは興味という頑強で粘着質なラベルを専用の薬品で引き剥がし、忘却のための箱に記憶をしまい込む。
思春期の片想いなんて、甘酸っぱくもなんともない。人を一方的に好きになるのは孤独だし、人から一方的に好かれるのには罪悪感がある。
私は賞味期限切れの記憶を引っ張り出して、ゴミ袋に詰め込む。
やっぱり私は、私のことを好きな人が好きだ。